2009年04月11日
求めない・・・・
昔から神童と呼ばれる子供が居ることが知られています。
モーツァルトは7歳で交響曲を作曲したと言われています。モーツァルトの曲には他の作曲家の曲よりも音に「ゆらぎ」が多く含まれており、仕事中のBGMには最適だと言われています。彼は曲が天から降ってくると自らの作曲を表現しています。
同じようなことを奈良時代の仏師「運慶」も言っていたとのことです。彼ら、木を見るとその木の中に掘り出されるべき仏様が観える。ただその観えた仏様をこの世に現わしているだけだと言っています。
本を読んでいても、時折りこの本は「書かされているなあ」と感じさせられる著書に出逢うことがあります。事実「神との対話」という本などは、ある夜、手が勝手に動き出して書かされたとその著書の中ではっきりと断言しているのですから驚きです。
私は神がかったり、勝手に何かを創り上げたりなどという大それたことは出来ませんが、最近、これは頭で考えたのではなく、ユングの言う「集合的無意識」の中から掘り出した「モノ」なんじゃないだろうかと感じるようになりました。
いわゆる頭で考えた善悪というハウツー本が多くある中で、ハウツーではなく、魂のバイブレーションによる本物のメッセージのようなものということです。
ただし、神の世界のことを書いているようで、頭で考えた損得の本もあるように感じます。結局のところ自分が感じ取る感覚だと言ってしまえばそれまでのことなのですが、でも、少し違うように思うのです。
私の手元に六角形をした小さな金属の造作物があるのですが、その金属を水分が通過するだけで、水に何かの力が宿るというモノがあります。私はとにかくこれは何かあると直感しているのです。
気功で人を活せる気功師と呼ばれる人が居ますが、そのような気の力を発する人ではない、でも同じような気を発する「モノ」だと思っています。
先日知人におしえてもらった「求めない」という本も「何か」に通じている感じが伝わってきます。しかも遇然の必然というのでしょうか、この本の著者も私と同じく庵に一人で住み、老子の思想を探究しておられる点が実に似ているのです。
その本のあとがきの抜粋をここに書きます。
『一昨年の夏、とつぜん私の胸の中に「求めない―」ではじまる語群が次々と湧き出した―それは画室にいる時、林を歩く時、時には飯を作っている時にも出てきたのです。四ヶ月の間に求めないで始まる短句が150ほどと、短詩が13篇がノートに記されました。これは私の中に小爆弾が起きたのであり、こんなことは長い年月の文筆生活でもごく稀なことだ。』
私はこの本を読んで、「何か」があると感じました。
学問や宗教、哲学は精神に入れる薬となるものです。本物の人に優しい薬ではなく、時としてその人の健康を逆に損ねる薬もあります。
そのようなものがどうかを調べるテスト法に0リングテストというものがあるくらいです。
求めることなく本来の自然な心で何事にも向き合うなら、必ず何かを感じることができるようになると言えます。「学びを捨てて学びを積む。」その学問姿勢の先にだけ本物がいつしか現われてくる。突然のように桜が満開になるように、その人の中に突然爆発のような衝動が湧き起こり、大悟するのだろう。
最近何となくコツのような感覚が芽ばえてきたような気がする。
でも多くの人が気づいているように思う。この「求めない」という本が発売後10ヶ月ですでに13刷を迎えていることがそれらを明らかにしているのではないだろうか。一読をお勧めします。
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