2009年04月21日

私達の「掟」は美意識だったのだけれど・・・

 今日、日立製の冷蔵庫がエコな冷蔵庫と偽ってその実、エコを偽装して商品を販売していたとニュースで聞いた。何だか最近エコエコとこれみよがしに喧伝(けんでん)しているけれども、とても素振りばかりが鼻につく。私の家ではいつも曾祖母が「もったいない、もったいない。」と言っては百貨店の包装紙をたたんで残していた。おのずと小さい頃から何事ももったいないと物を大切にしてきた。

 当社も自然のように「もったいない、もったいない。」と多くのものを再利用している。別段そのことで「○○認定」だとか、「エコロジー企業」なんて謳う気はサラサラない。そのようなことは当たり前すぎて社員一同気にも止めない。台所用品や事務用品はほとんど人様が捨てるようなものをもらってきて使っている。会議用の机も椅子も、マッサージチェアもスチール家具も、果ては金庫、軽自動車にいたるまでいただきものだ。社員の作業着は胸の他社のネームをガムテープで隠して着用している。

 人間というものは、自分が善人だとか、当社は自然に優しいなんて声高に言えば言うほど、実はその逆であることの方がはるかに多い。
 
 擬装米で被害者然としていた美少年酒造も裏で汚い金を握っていたり、うなぎの産地を擬装したり、そんな事までして社会を維持・発展させたいのだろうか?いったいそんな社会に存在する意味があるのだろうか?

 漢字という日本人の言葉を検定して公益とは名ばかりの私欲を肥やす輩も居る。

 はっきり言おう。要するに金を握った者が偉い世の中で、その為なら手段は選ばない。国を治める官僚が我れ先に税金に群がっている。美しさのかけらも無い。

 砂漠で生まれた宗教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、「掟」によってその信者の在り様を規定している。一方、モンスーン気候に生まれた宗教である仏教や儒教、道教には砂漠のような絶対はなく、移り変わる無常がある。そのような宗教にはそこに生きる人々の「美学」が掟に替わる。

 それぞれの美意識に依るだけに、掟にように明確なものはない。それゆえに、一人一人の人間の確固とした自意識に頼ってきた。今日西洋の契約法の考えが入り込み、法に触れなければよい、契約を交わしてなければ約束は破ってもよい。そのような価値観の無い時代は、「武士に二言は無い。」と一度口にしたことを反故(ほご)にしたなら、それだけで腹を切る。それが武士道という美学というものだった。そのようにして美意識によって保たれてきたのが私達の日本だったとだけどうしても書きたかった。


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2009年04月11日

求めない・・・・

 昔から神童と呼ばれる子供が居ることが知られています。

モーツァルトは7歳で交響曲を作曲したと言われています。モーツァルトの曲には他の作曲家の曲よりも音に「ゆらぎ」が多く含まれており、仕事中のBGMには最適だと言われています。彼は曲が天から降ってくると自らの作曲を表現しています。

 同じようなことを奈良時代の仏師「運慶」も言っていたとのことです。彼ら、木を見るとその木の中に掘り出されるべき仏様が観える。ただその観えた仏様をこの世に現わしているだけだと言っています。

本を読んでいても、時折りこの本は「書かされているなあ」と感じさせられる著書に出逢うことがあります。事実「神との対話」という本などは、ある夜、手が勝手に動き出して書かされたとその著書の中ではっきりと断言しているのですから驚きです。

 私は神がかったり、勝手に何かを創り上げたりなどという大それたことは出来ませんが、最近、これは頭で考えたのではなく、ユングの言う「集合的無意識」の中から掘り出した「モノ」なんじゃないだろうかと感じるようになりました。

 いわゆる頭で考えた善悪というハウツー本が多くある中で、ハウツーではなく、魂のバイブレーションによる本物のメッセージのようなものということです。
 
 ただし、神の世界のことを書いているようで、頭で考えた損得の本もあるように感じます。結局のところ自分が感じ取る感覚だと言ってしまえばそれまでのことなのですが、でも、少し違うように思うのです。

 私の手元に六角形をした小さな金属の造作物があるのですが、その金属を水分が通過するだけで、水に何かの力が宿るというモノがあります。私はとにかくこれは何かあると直感しているのです。

 気功で人を活せる気功師と呼ばれる人が居ますが、そのような気の力を発する人ではない、でも同じような気を発する「モノ」だと思っています。

 先日知人におしえてもらった「求めない」という本も「何か」に通じている感じが伝わってきます。しかも遇然の必然というのでしょうか、この本の著者も私と同じく庵に一人で住み、老子の思想を探究しておられる点が実に似ているのです。
 
 その本のあとがきの抜粋をここに書きます。

 『一昨年の夏、とつぜん私の胸の中に「求めない―」ではじまる語群が次々と湧き出した―それは画室にいる時、林を歩く時、時には飯を作っている時にも出てきたのです。四ヶ月の間に求めないで始まる短句が150ほどと、短詩が13篇がノートに記されました。これは私の中に小爆弾が起きたのであり、こんなことは長い年月の文筆生活でもごく稀なことだ。』

 私はこの本を読んで、「何か」があると感じました。
学問や宗教、哲学は精神に入れる薬となるものです。本物の人に優しい薬ではなく、時としてその人の健康を逆に損ねる薬もあります。

 そのようなものがどうかを調べるテスト法に0リングテストというものがあるくらいです。

 求めることなく本来の自然な心で何事にも向き合うなら、必ず何かを感じることができるようになると言えます。「学びを捨てて学びを積む。」その学問姿勢の先にだけ本物がいつしか現われてくる。突然のように桜が満開になるように、その人の中に突然爆発のような衝動が湧き起こり、大悟するのだろう。
 
 最近何となくコツのような感覚が芽ばえてきたような気がする。

 でも多くの人が気づいているように思う。この「求めない」という本が発売後10ヶ月ですでに13刷を迎えていることがそれらを明らかにしているのではないだろうか。一読をお勧めします。


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2009年04月01日

「感動」の安売りが始まった

 イオングループとイトーヨーカドーグループがバーゲンでなく長期的な商品の大幅な価格の見直しを発表した。
原料安と円高の差益を価格に反映するらしい。世は安売りの時代に突入したようだ。

 そんな時代にモノの安売りは消費者にとってはありがたいけれども、実は私はあるコトの安売りをとても危惧している。それは「感動」の安売りです。

開高健は、おいしいという事を、おいしいという言葉や同義語を用いるのではなく、百万語を要しても、その感覚を文字で表現するのが作家であると言っていた。ところが昨今の本は、誰でも(私も書いているくらいだから・・・)書ける時代になり、それは多様な価値感が世に出るという反面、内容の薄いアマチュアな本も出るという弊害も起こっている。

 そんな中でよく見受ける文言が先の「感動」という文言です。
ひどい本になると、ほぼ1ページに一回のような感じで「私には○○に感動した。」が連発されている。

「果たして人はそんなに日常感動するのだろうか?」

感動とは、私は何か大きな驚きや気づきに出逢って、心が震え、それ以降行動や考え方が変わる(感じた後に動きがあるのだから)ことだと思っている。心が揺さぶられるレベルは、感激とか感服とか感心という言葉が適切なのではないでしょうか。

 同じ線上で友達の安売りも起きている。「○○さんはトモダチです。」とすぐに言う。

「じゃあ、その人はどんな人?」と聞けば、「会ったことない。」「え!」
会ったことなくてもトモダチになるのです。
「だって、チャットのトモダチなんだもん。」「え!」
それって知っている人レベル、つまり知人かそれ以下でしょ。

友達というのは、相手の内面の多様性を知った上で、お互い信頼(信用ではないことに注意)関係を築いた仲のことで、一生でも数人も居りゃ大したもんだのレベルでしょ。と、私は思う。

 中国などはもっとすごいですよ。
外省人(ワイレン)と内省人(ツーチーレン)と呼び、血縁の家族以外はほぼ外省人と思って良い。だから外省人は平気でだます。他人だからだまされる方が悪いという考え。

だから日本人が食べるギョーザに毒を入れてもさほど悪いと思ってないし、中国当局も外省人でも特に嫌いな日本人がどうなろうと知ったこっちゃないのです。

だから捜査も熱心にやらない。北朝鮮の政治もそういう見方をすればだいたいわかる。だから中国に進出した日本企業はかなり中国に痛めつけられている。

「え!主観が入りすぎですって?」じゃあ、先ほど血縁とわざわざ書きました。
気づいて下さい。嫁は外省人扱いなんですよ。中国には纏足(てんそく)という制度があったのをご存じですか?これは、少女が幼いうちに足に布を固く巻きつけて、足の発育を止める習慣です。こうしておくと歩けなくなり、子供産むだけの機械になるのです。

この纏足にはもうひとつ目的があって、嫁はあくまで血縁の無い外省人なのです。これは死ぬまでそのように扱われるのです。ところが家の内情や夫の性格をよく知っています。
そこで逃げて外に家の内部事情が漏れないための防衛手段でもあるのです。
これは昔の朝鮮も同じようなもので、嫁は子供を産む道具で、家畜のような扱いを受けていたのです。それであまりの虐待のひどさに耐えかねて、進駐して来た日本軍に慰安婦でも良いからこの境遇から助け出してくれと頼んで、志願して慰安婦になったのです。

モンゴルもそうです。
騎馬民族の結婚は略奪婚という形式で、他人の妻を奪って自分の嫁にするのです。ジンギス汗の最初の妻も一度は略奪されたのを取り戻しているのです。ですから第一子はジュチという名で、これは「疑わしき子」という意味です。

 日本人のように、血縁でない他人を信頼できる社会は世界では特殊なのです。知らない人はアジア人とひとくくりに言ったりしますが、日本及び日本民族はそれだけで一文化圏という考え方がヨーロッパの目では大勢な見方となっているのです。

 いったいこの素晴しき国「日本」はどこへ漂流しようとしているのだろうか?

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