2009年02月24日

我田引水

 人間にはどんな人にもプライドがあり、プライドを傷つけられて、その相手に嫌悪感を抱く人が居る。

 私は性格的なのか立場上なのか、どうもその人の言うプライドなるものをよく傷つけるらしい。しかし、例えばその人の顔や手や足など、身体的な部分を傷つけるというのなら目に見えてわかるのだけれども、その人のプライドを傷つけるとはいったいどういうことなのだろうと思う。

 その人の実力を10として、15のプライドを自分で持っていたとして、その肥大した5の部分について「指摘」したとする。これは隣人としてのあるいは年長者としての愛情から出たことだ。しかし、当の本人は実力も15だと思い込んでいるからプライドを傷つけられたと受け取る。

 こんな行き違いは日常茶飯事だろうと思う。

 そもそも自分と他人の評価が一致することの方が稀れなのだから、良かれと思って「指摘」することが相手のプライドを傷つけたなんて言われたら、誰も他人のことには干渉しないでおこうとするのは当然のこととなる。

 これが思い上がりの現代病の一つだと最近つくづく思う。

 もうひとつ、同じような出来事によく出会う。

京大教授の中西輝政さんの著書に次のような一節がある。

「日本とイギリスの大きな違いの一つに、イギリスでは、わかりやすい本を書く学者がもっとも尊敬されるのに比べ、日本ではそういう学者は学者扱いしてもらえなくなりがちです。

そういう点では、日本の学問の世界には、本当の意味で知的に優れている人物が少ないといえます。むずかしい話をむずかしい言葉でしか説明できない人が大半だからです。

極端な言い方をすれば、そもそも日本の場合、学者の優れているところは、情報を集める技術だけなのです。学問を社会に還元するということは、本来こうして、むずかしい話をわかりやすく一般化することをいうのではないでしょうか。そうでなければ、学者の存在価値は無くなります。むしろ、実社会でいろいろな経験を積んできた経営者とか、街中で営々と商売をやってきた人などの話に、学べることが多いように感じます。

これらの人々は結局人間をよく知り世の中の動きを確かな感性でつかまえているので、じつにわかりやすい言葉で話します。本当の意味での賢さを持っていると思うのです。」

 多くの人が漠然と感じながら、わかり易い言葉で説明できない事柄に何年もかかって考え、解明しわかり易い言葉に置き換えて話しをするととても喜ばれる。

「そうか、私が言いたかったことはそういうことだったんだ。」と。

日本ではこのような話の評価は実に低い。
一方、むずかしい話しを聞き、理解しにくい内容のため、オウム返しのように一言一句同じようにわかったように話す人がいる。そういう難しい話をする人を世の中は先生と呼んでありがたがる。

確かに難しい話でも聞けば絶対にためになるし勉強になる。そのようにして日本中あちこちで講演会が開かれている。昔に比べてこれほど「ありがたい話」が世の中にあふれているのに、どうして世の中はさほど良くならないのでしょう。

 それは、良い話の行動への変換係数の大小に全く無頓着に講演を聞くからです。10のことを知るのに1年で身につく師と、10のことを知るのに10年がかりで身につく師を全く区別できていないことが問題だということに気づいていない。どちらも「ええ話聞いた。」で感想はしめくくられる。

 要するに、聞き手の知性というものが不十分な日本では、そもそも値打ちがわかるということが難しい。

 昔から外国から評価されて気づく日本人であったし、戦後の教育も自分の頭で考える思考力より、先生や教育委員会、お上の言うことをいかに忠実に聞き入れるかに重点を置かれて育てられてきたから、話し手が肩書きがあるか、権威があることが大切で、内容は、そのまま鵜呑みにして知ったかぶりをしてオウム返しをするのが関の山です。

 もう少し、その人の話しの内容はいかなる期間で自分を変革するのかという、変革性向に注意を払って貴重な時間を講演会に向けて欲しいと思う。

 叱ったり話しをするモチベーションが最近急降下し始めた今日この頃なのだ。


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