2009年01月29日

器量は四元の損得の見極めと実践の総量である

 私が世の中で一番嫌いな人種のお話しをしたいと思います。ひと言で言うと「物知り顔の知識人」と言えます。
だいたい、若くて、スタイリッシュで、少々のイケ面なら、この「物知り顔の知識人」は選挙で当選する世の中です。いつ頃からかこのような若者が当選する潮流になって、いまや百匹目の猿現象ではありませんが、社会現象化しています。

 私は「物知り顔な知」というものを、掘り下げて、「本物知り」になろうとする努力を通じて、世の中に提言してゆくがライフワークです。

 突然話しは変わりますが、「器が大きい」とか「器量がある」という言葉が一般的によく使われますが、これはどういうことなのでしょう。何となく感覚的にわかった気になって、それ以上掘り下げることはあまり無くはありませんか。
この「何となく通り過ぎる癖」というものが、「物知り顔」を作る元凶になっているとはおもいませんか?

 その他にも、「わがままと個性の違い」や「おせっかいと気配りの違い」や「労働と勤労の違い」など、若干私の著書でも触れておりますので、どうかそちらをご参考いただけば幸いです。

 それでは「物知り顔」に戻りましょう。
「物知り顔の知識人」の大きな特徴は、「損得勘定に明るい」ということが挙げられます。彼らは物事を深く考える力が弱いですから、常に損と得この二元において、常に得を得るにはどうしたら良いかで脳ミソが起動します。

この計算の速いいわゆる高学歴と呼ばれる連中が官僚や企業の幹部、政治家へと流れてゆきます。しかし、損と得の世界は、実は二元ではなく四元から成っているのです。

ここが大きなポイントです。
これがしっかりとわかっていた器量のあるリーダーが多くの仲間を集めてきたのが私達の先達の歴史なのです。小物のリーダーの出る時代になりました。それはある意味幸せなことでもあるのです。

多くの人が大きな差なく豊かな時代だとも言えるからです。昔のように文字の読めないいわゆる文盲の人が多数などとは全く反対の世の中です。格差・格差と言われていますが、現代日本ほど格差の少ない平等な時代は過去にはありませんでした。

 ただ、私は、人生の目標として、「器の大きいリーダー」に人が成長するにはどのような価値感や考え方を持たなければならないのかについて探究し、発表しようと試みているにすぎません。

 今日のコラムは、ヒントは散りばめたものの、私の見解は敢えて伏せました。

 少しでもこのコラムをお読み下さった皆様が、立ち止まって、漠然と知ったかぶりをしていたことに意識を向けていただけたら幸いと思っております。


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2009年01月27日

みんなのおかげです。ありがとう

 「傲慢」この字をごうまんと読みます。
なんだかとてもこわそうな響きがあると感じませんか?
私なんか、この言葉を聞くと「あー怖い、怖い」なんて気になってしまいます。
「でも・・・。」自分の周りで傲慢な人を探すと、そんなに居ないなぁ、なんて思ったりするのですが、よくよく考えると、実はこの地球上で最も傲慢なのは、私達人類に他なりません。
そう、私自身なのです。

 たとえば、普通の水に、「ありがとう」と書いた紙を貼ると、その水は綺麗な結晶になる。
ところが、「ばかやろう」と書いた紙を貼ると、その水は結晶が作れないらしいのです。
たかだか水と思うのは、実は人間の傲慢にすぎないのです。

私達の体は70%~80%くらいは水分なのですから、いつも心で「ばかやろう」とか「殺してやる」なんて思っている人の血は、いったいどんなに壊れたり濁っていたりするのだろうかと思います。
身の周りにあるどんなものにも感謝の気持ちを持って接すると、それらの物も全て波動で感じてくれるのです。

 サッカー選手でシュートをするストライカーと呼ばれる人も仲間のおかげで得点できたと思う人と、俺の実力だと思う人とでは将来のその人の伸びにはとても差が生ずるそうです。

 なぜなのでしょう。私は二つの理由を考えています。

ひとつは、自分の周りの全ての人、全ての物に感謝の心を持って接し続けていると、周囲の人や物も感謝の波動で応えてくれるようになります。
そのような波動に満ちた場所のことをイヤシロチと言います。
このイヤシロチに身を置くと必ず運気が上がるのです。

ふたつめは、傲慢になる人というのはもともと他の人よりも才能に恵まれているのです。その分大きな成果を上げます。この成果というものは目に見える賞讃というもので「陽徳」と言います。
陽徳は陰徳が形を替えたもので、もともと自分が持っていた徳分です。
そうですね、わかり易く言えば、300万円の貯金を持っていたとします。その貯金は周囲の人からは見えません。陰徳ですから。
その300万円でかっこいいスポーツカーを買って乗っていたらどうでしょう。周りの人からは注目され、かわいい女の子とデートできるかもしれません。これが目に見える陽徳です。

 それをひとり占めしてしまうと陰徳が全て失われてしまいますがそのスポーツカーを友人にも貸してあげたらどうでしょう。単純に言えば感謝という陰徳がもらえます。
それと同じように、シュートを決めた栄光を皆のおかげと感謝することは、結局自分のためになるのです。賞讃という陽徳を補い続けないと徳が下がります。その枯渇を招かないように傲慢、それも特にほんの小さな傲慢こそ気をつけたいとしみじみ思います。


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2009年01月13日

知識と智恵

 今日は知識と智恵について考えてみました。
よく巷では知識編重とか、知識ではなく智恵が大切だと言われる。さてさて、智恵が大切と言われるけれど、智恵っていったい何なのだろうかという疑問がふと湧いてきた。

私は昔昆虫博士だった。
どんな昆虫を見ても、一目でその名前や習慣が言えることは昆虫博士の基本中の基本です。いかに昆虫についての知識を有しているかは基礎体力のようなものです。
しかも、それはとても重要なことでもあるのです。つまり、知識って具体的な形あるいは形状あるいは概念など、形がある、あるいはあるようなものを差し示すことができるということだと言える。

ところが、智恵となるとそういう形のようなものが思い浮かばない。ここのところがとても重要なのです。
みんなは、役に立たない知識と役に立つ知識とに分けて、役に立つ知識を智恵だと誤解していないだろうか。
知識は役に立とうが役に立たなかろうが、それらは全て知識なのです。

「智恵は形を打たない。」「え!」と思うかもしれないけれど、智恵は何らの形も概念もない。
仏教では「智恵を心理を悟り、仏道を体得する力」と定義している。つまり、「考え方とか様式(スタイル)というものが智恵だということである。」

 もう少し例を変えて説明しよう。
知識は料理の素材で智恵は料理人と言える。同じ厨房で同じ素材を前にしても、中華というスタイルの料理人の手にかかると中華料理になり、フランス料理というスタイルではフランス料理ができる。
まさに素材をどのような考え方で料理をするか、どのような様式で料理をするかで結果が異なる。

 そのように考えると、知識より智恵は間違っていることに気がつく。知識つまり料理で言えば素材、これはいろいろの素材が多くある方が、その時々でよい料理ができる可能性は高くなる。人生をより良く生きる素材としての知識もそりゃ多いのに越したことはない。

一方、いくら素材がたくさんあったとしても、ズブの料理の素人では手も足も出ない。やはり立派な料理の腕も持っていなければならない。

 つまり、人間は智恵を持っていないと人生をより良く生きることは望めない。

 ただ、現代という時代は、知識はとても簡単に、幅広く手に入る。つまりそれほど知識を身につけることは難しいことではない時代に生きている。
ならば、智恵というものをいかに多く身につけるかが人生の成否を分けるポイントとなって浮び上がってくる。

 ところが、この智恵というものは、困ったことに知識とは異なり、理解しても何の役にもたたない代物ときている。
つまり、百万冊の泳ぎの本を読破したとしても、泳げないに等しいことを見ればわかる。
かと言ってやみくもに飛び込んでも、やはり危険極まりない。
泳ぎの方法を学んで実際に泳いで体験する。
そうです。
つまり理解ではなく、体得するものが智恵なのです。

となると、学校の先生のように単に机の上だけの勉強で健在知識を与えることはできても、智恵を与えられる人物はいかにも少ない。
しかも、これは時代が若くなればなるほど、目に見えて少なくなってきた。極論を言えば、現代は知識人の代表の評論家が頭だけで考えてしゃべっていることしか若者は聞く機会を与えられていないという惨状と言える。

 これでは若者は可哀想ですし、日本の未来も危うい。これは我々の世代が諸先輩方から多くの智恵をもらっていたにもかかわらず、それをちゃんと次世代へバトンタッチしてこなかったことによる。

 智恵を次世代へつなぐ場を今年は作ろうと思う。


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2009年01月06日

「通」の年

 昔、私が良く行ったコーヒー専門店がありました。その店に行くと、マスターはお客様に必ずこう尋ねるのです。
「酸味ですか?苦味ですか?」
ここはコーヒーを飲みに来る所。
間違っても「何にしましょうか?」などとは尋ねない。
私は若い頃から苦味が好きだ。

コーヒーの味を覚えたのはちょうど二十歳の夏でした。

入院仲間の先輩に連れられて喫茶店という所へ行った。
コーヒーには砂糖とミルクを入れるものと思い込んでいた。
なぜなら私の家では小さい頃からそのようにしてコーヒーを飲んでいたから。
とは言ってもインスタントコーヒーで、本格的なコーヒーは喫茶店が初めてだった。

初めて先輩に連れられて喫茶店に行った時、小声で「ほんまはなぁ主治医にコーヒーとタバコはだめって言われてんねん。けどなあ、どうせ長い命やないから、気にしてへんねん。」と私に言った。

当時の常識では、コーヒーを飲む人間は不良、コーヒーは体に悪いでした。
 
 私も「どうせ長くない命やし、コーヒーを飲んでも構わんわ。」
と常飲するようになりました。

喫茶に通っているうちに本格的にコーヒーを教えてくださるマスターと仲良くなった。

コーヒーのマナーから焙煎までいろいろと。
そして、ミルクはほんの少しなら入れてもいいけれど、本来コーヒーはブラックで味わうことも。
私はそれ以来、「コーヒーはブラックで」が習慣となった。

ブラックで飲むことでそれぞれの豆の味の違いがわかるようになった。
体に悪いコーヒーと言われながら、一日4~5杯飲み続けている。

 しかし、なぜ苦いコーヒーを好んで飲むのだろう。

フロイトの心理学で言えば、「人間は本能的に甘い物、楽な事を欲求する生き物だと考えた。」
しかし、マズローはそれに異を唱えた。

「人間は自己実現こそが最大の欲求であり、そのためには困難や苦しみも受け入れる。」と。

私は、砂糖入りの甘いコーヒー好きではない。
同様に人生も何の不安もなく甘い人生は楽しいものではない。かと言って明日の生活にも事なく人生もやはり厳しい。何もこのように両極端に考える必要はない。
元来はブラックでも、少しミルクを入れるのは構わない。しかし、それでもコーヒーの醍醐味は甘さではなく苦味や酸味の中にこそ在る。

 人間は、特に男は金持ちになるとだいたい考えることが限られてくると言われている。
女のことと車の事と遊びの事。
つまらない人生だとつくづく思う。

 苦味のあるコーヒー、苦味のある人生。

そこにはいくつもの味が豊かに混じりあっている。

飲めないほどの苦味はどうしようもないけれども、今の混沌とした世の中は苦味とチャンスに満ち溢れた味わい深い時代だと思う。

世襲で甘さを享受してきたセレブと称される二世、三世では泳げないような時代になれば、日本も大きく転換できる。
今、私達の目の前に起こっている現実は、何も困ったことでも危険なことでもない。
そもそも出来事というものには意味はない。そのことに、善悪、良否、好悪の色を付けるのは、その現実に向き合う人間の心の色による。

2009年という年に私は色を付ける。それは通の年ということです。
 
 困難と努力の汗の先に希望と夢のある素晴しい色を付けよう。このような時代に全力を出せる自分に感謝しよう。2009年は苦味の好きなコーヒー通の私こそが最もその味の奥深さを味わいきれる、百年に一度の好機だ。
きっと今を味わうための30年のコーヒーの旅だったのだろう。

「心からハッピーニューイヤー」


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