2008年10月31日

つかみが大切

スピーチをする立場にある人はいいスピーチをしようとか、受けるスピーチをしたいと考えて、その方法を探します。そして誰もが行きつく答えが、「つかみ」の勝負だとするのが一般的です。

 物事って何でもそうなんだと思う。人は第一印象でその相手の人のほとんどを決めると言われている。

 スカンジナビア航空のCEOであった、ヤン・カールソンも「真実の瞬間」という著書でお客様は「その最初の15秒の印象でほぼその航空会社への評価を決める。」と語っている。多くの講演会のプロ講師を育成してきた安宅 仁(あんたぎじん)氏も著書でカリスマ講師の特徴を次のように語っておられる。「カリスマ講師の話を聴いてきましたが、必ずしもロジカルな組み立てというわけではありませんでしたし、話し方も特徴的というわけではありませんでした。しかし、明らかに人を惹きつける話術を持っていました。私はそれを「つかみ力」だと思っています。

 話が苦手な方も、話し方や声の改善よりも自分の特徴を活かした「つかみネタ」で目の前の人の心をわしづかみにしましょう。」

 「でも?」と私はふと考えてしまう。私はよく本を読みます。自分として本を書こうかとか、本を書きたいというような著者自身の思いの力によって書かれたというより、売れる本づくりとか、どのような構成をしたら売れるかとか、装丁や刺激的な題名でその本を手に取らせようという仕掛けを強く感じる。若手の漫才師も女の子にもてたいとか、有名になりたいという思いが強く前に出て、本当に漫才をしたいとか、漫才師という職業に誇りを持っているようには思えない。

 売れるため、有名になるため、女の子にもてるために漫才師を選んでいる感じだ。でもそれでもいい。それを欲するお客様が居るのだから。しかしまたその一方で本物を指向するお客様が居るのも真実だ。

 本の話に戻ろう。最近の本はだいたい前の20%、つまり本の5分の1くらいを読めば、その本の内容のほとんどが理解できるように思う。1500円の本なら、せいぜい300円くらいの値打ちしかない。昔はこのようなことを龍頭蛇尾(りゅうとうだび)と言ったものです。最初は龍のように勇ましいにもかかわらず、最後は蛇のしっぽのように弱々しいことを言う。

 本も年間にかなりたくさんの本が出版され、早いものでは2週間で店頭から消え返却されるらしい。
だからこそ、最初から最後まで起承転結を持って書かれた本が、心ある人に見出されてジワジワとその部数を伸ばしてゆくとも一方では思ったりもする。

 孤高の名人と言われている江戸落語の柳家小三治師匠が、先日テレビで言っていたのが印象的だった。

 若い頃は落語を徹底的に勉強し、若いながらお客さんを笑わすことに秀れ、真打への昇進もあっという間だった。その有頂天の頃に師匠に呼ばれて師匠の前で落語をするように言われた時、それを聞き終わった時、ポツリと「おめえの噺はちっとも面白くねえなあ。」とたった一言。何が面白くないなんて教えてもらえない。というより教えられないんでしょうね。本人自身で気づかなければならないのです。それからというもの「面白い落語とは?」を考える日々。
そしてある時、大先輩の落語家の言葉にハッとする。

「おもしろい落語を話すコツは、おもしろく話そうとしないことなんだ。」お客さんに受けようとか笑わせようとするとどうしても媚びた落語になってします。本物の落語ファンにはこの媚が鼻についてしまう。何十年何百年もかけて語り伝えられてきた噺というものは、そのままちゃんと噺せば誰がやっても面白いから今日まで語り継がれてきたわけで、小手先の技はむしろ滑稽でさえある。柳家小三治はそれからというもの、噺家と噺のバランスを考えて、できるだけ変な色を付けずに話そうと心がけたというようなことを言っておられた。

 私は「つかみ」を意識し、「うける」ことを意識するあまり、何のために話すのか、ちゃんと内容のある話をできているかがおろそかになってはいけないと強く思う。

以上、この内容のつかみで私の講演を始めようと思う。やっぱりつかみは重要ですからね。


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2008年10月27日

変化

 今年の9月14日にアメリカのリーマン・ブラザーズが倒産して以降世の中の様相は一気に「変化」しました。石油価格は今、ピーク時の半額です。テレビ・新聞等でも日々「変わらなきゃ、変わらなきゃ。」の大合唱です。世の中というものは、現状の批評をする人は本当に多いのだけれども、「どのように。」変わらなきゃならないのかを示そうとする人は本当に少ない。実は変わらなきゃ、変わらなきゃと言っている評論家自体、実はそれほど変われる必要のないポジションの人だからです。彼らは現状と向き合ってコメントすればいいのですから。本当に変わらなきゃならないのは時代の最先端に立ちながらも、常に未来を指向しなければならない経営者なのです。彼らの中の少数だけが、間違いのない未来を見据えていることは確かです。そしてその企業だけが新しい時代に栄えるのです。

 あと2週間足らずでアメリカ大統領選挙がありますが、くしくも次期大統領候補のオバマ氏の選挙スローガンが「チェンジ」です。
こんな時代には、しっかりと「変化」の意味を知っていないと変化についていけないということを自覚しなければならないと思います。

 例えば、単に変化と言っても、朝ごはんをちゃんと食べるようになったとか、クールビズでネクタイをしなくても良いようになったとか、最近離婚したとか、リストラになったなど、色々な変化の種類があります。

 私はここでの変化を、ダーウィンが進化論の中で言っている「変化」を「変化」と定義したいと思います。彼は「生き残るものは強いものでも、頭のいいものでもない。変化に対応できたもののみが生き残れる。」と言っています。つまり、変化とは、「世の中の根本的流れが変わった時に、その変わった流れに順応して自らを変えられた」ということです。この正しく変化に対応できたところまでを含めて変化としなければならない。それでは、イワタ式変化対応法を書いてみようと思います。
変化を成功させる要素として私は5つあると考えています。しかも、その5つがうまくバランスして発生することで、変化への対応ができると考えています。

 まず第一は、「変化をする力を常々内に秘めている。」ということ。これは基本です。変化する力が無いことにはまず話が始まりません。第二に、「どのように変化したらよいのか(進化)がある程度理解できている。」
 そして第三に、「その変化への対応を開始するタイミングが間違っていないこと。」どのような出来事にも、対応するのに正しいタイミングというものがあります。これも大切ですねえ。

 私的には、この変化という中で、このタイミングの取り方というものに特に注意を向けています。私のタイミングの決定方法を科学的でないと言う方も居られるかもしれませんが、私はこの方法が実は一番正しいと信じているのです。私には過去に、若い経験がありました。もともと私は脱サラをして一人から会社を始めました。ある程度の会社になると、あちこちから、「あなたの会社の今後は良い右腕を得られるかどうかですよ。」と言われるようになります。皆さんにもご経験あろうかと思うのです。私も若き経営者。経験も浅い事ですから、「そうか、右腕を探さなきゃ。」と常々意識するようになりました。今、振り返って思うと、「右腕が必要だと進言した人に、いったい何人経営者が居ただろうかと考えます。意外と一度も経営をしたことのない金融機関の人だったりします。話を元に戻しましょう。私は右腕を探し始めたのです。こんな右腕が必要なのかと考えながら、実はここに落とし穴があるのです。「探し始める。」という行為そのものに。どうしても出逢う人出逢う人それぞれを右腕というレンズを通して判断するようになったのです。素直に人として向き合えなくなったのです。以外と結果を焦る女性に起こりそうな話ですね。結果は申すまでもありません。私はそれなりの傷手もかかえることとなったのです。

 それからというもの、「求めるのではなく、現れるものだ。」という考えに変わりました。「現れなかったら一生ワンマンでいいや。それが俺の器なんだろう。」と思うようになりました。そしてその後、思いもよらない縁で、出逢う事となったのです。それ以降も、私は何か見えない意志が一定の方向を示して気づかそうとする力が存在するように感じるのです。たぶん誰の上にもあるのでしょう。でもそれに乗る人は、誰でもというわけではないでしょう。曇りや片寄りのない心でしっかりと導きの有無を観察する心の眼の力のある人だけが、それに気づくことができると思います。

 第四は前にも触れたように、「その変化への対応を開始する仲間は間違っていないこと。」この人選を誤ると、内部分裂を起こして、崩壊します。

 そしていよいよ最後の第五番目です。それは、「変化という局面を自分がより良く変われる機会だととらえ、挑戦しようという意欲を持っていること。」です。先日ある出版社の編集長がおっしゃっていました。「人間は裕福になると本質的なことを考えなくなる。」と人間は、常に厳しい環境に身を置くことで物事を深く考え、変化し、若々しい自分で居られるということのようだ。私は裕福であるよりも安全であるよりも授かった命の輝きを失わない人生を歩みたいと思う。

「飛行機は地上にあれば安全だけど、だけど飛ぶためにあるんだよ。」
(ある映画でおじいちゃんが孫に言ったセリフです。)


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2008年10月20日

「坪庭」文化論

京都という街に多いもの。和菓子屋さん、喫茶店、町屋。この3つ以外にも、ひょっとして他の街より多いものは有るのかもしれませんが、私にはこの3つが目立ちます。

 私も町屋を活かしながら現代に再生してきた人間ですから、どうしても町屋とのセットのお庭にも興味を持たないわけにはいきません。
 ここTOKI-WA-SOHに隣接する英徳舘にもお庭があります。京の町屋とお庭について少しレクチャーをしましょう。

 京都はその昔、豊臣秀吉が天下を取っていた時代に、それぞれの家に税がかけられました。そのときの税のかけ方の基準が今とは異なり、屋敷の広さに関係なく、それぞれの家が道路に面しているその間口の広さに対して税をかけたのだそうです。ですから京の町衆はその税を安く抑えるために、間口が狭く奥に長い、いわゆる「鰻の寝床」という町屋に住むようになったのだそうです。この「鰻の寝床」の町屋は隣とは壁が接しており、空気が流れる余地がありません。

 そこで人々は、中庭と呼ばれる小さな庭を真中に作り、奥に本格的に庭を作って通風と採光を確保してきました。建築家の先生のレクチャーだとこのようになるのですが、実際に庭を眺めて私が感じるところは、どうもそれだけではない、もっと深い意味を持っていると思えるのです。京都人は裏地に凝ると言われるように、外からは見えない部分にお金をかけます。それは、自分だけが、自分という人間の尊厳やプライドを人知れず壌成するための仕掛けのように思えるのです。町屋にしても、大きな屋敷を構える財力があっても、時の権力者の圧力によってそれを抑制されてきた京都人は、燈ろうや石など、一見何でもないようなものひとつひとつにとんでもない贅を尽くすことで、その自尊心を満足させてきました。この庭を大切にして愛でる(めでる)ことによって、京都人は京都人としての自分の殻を持ち得たのだと思うのです。

 時の権力者や現代の東京のお金持ちが羽振り良く振舞うのを横目に、自分の壺中居(こちゅうきょ)に身を置き、「成り上がり者には文化や教養が無いよなあ。」とか、「この侘び寂びはちょっとやそっとじゃあ理解できないだろう。」と心の中で独りつぶやきながら、抹茶を立て和菓子をほおばり、時を過ごす。京の坪庭というものには、こんな恐ろしい力を秘められていると、庭を眺めていてつくづくと思った次第である。

もっとも、このように文章で説明されて、実際にその坪庭と対峙してもそれでもたぶん京都人でなければそこのところはわかんないだろうなあ。
なんて考えながら私は今日もお気に入りのコーヒーをすすっている。
いやはや京都人という人種はほとほと付き合いにくい人種ですねえ。

P.S:『坪庭の作り方講座』
 まずお庭に関する本を読む、見る。そして実際のお庭に触れにいく。それが十分できたところで、自分で坪庭を設計する。そしてその坪庭の物語を考える。実際に坪庭作りに直接自分も関わる。縁側でお茶菓子の用意をするだけでも良い。そして完成したら、毎日手入れをする。そして、庭と向き合いお茶ないしコーヒーを飲み庭と語り合う。それを繰り返しているうちに庭の恐ろしさを肌で感じられる。


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2008年10月15日

定義を定義してみよう

私は最近とても困った問題に直面しています。それは、自分に直接関係することなのですが、でも自分のことではありません。それゆえに、その問題を解決するということがとても難しいのです。

 ただ、その問題の根本ははっきりしています。それは人それぞれで基本的な「モノの定義」が人それぞれで違うということなのです。同じ国で同じ言語を使っているのなら、本来は、その言葉の定義は同じでなければならないはずでしょう。(まあ、それは理想ですけど)
ところが、相手の人の定義が自分と違っていたりなんかすること、これはなかなか話が噛み合わない。
 具体的に言うと、「お金持ち」の定義があるとする。
ある人は金銭やその価値のある物を多く所有することをもって「お金持ち」と定義する。私などは、単に金銭等を多く所有するだけの人は、「守銭奴」と定義する。欧米ではセレブとは持っているお金を使って楽しむための時間まである人のことをセレブと称し、単なる金持ちはセレブとは呼ばない。

 だから会話をしても、この定義の違いから話が噛み合わなくなる。他の例では、「おせっかい」と「気配り」の区別ができていない場合。「おせっかい」は相手の立場に立たないで自己判断で相手の人の世話を焼くこと。従って、全てが相手のためになるとは限らない。と言うより、むしろ相手が迷惑することが多くあるのだが、当の本人は相手から感謝されるべきと考えていたりする。その人にとっては、おせっかいを含めて「気配り」と認識している。これは母親と子供の関係においてよく見受けられる。

 「知識」と「知恵」などもそれに当てはまる。知識が豊富で物知り顔で人に話をする人が、それは一度も泳いだこともない人間が百万冊の泳ぎ専門書を読んでることに近い。知識を実社会において実践したうえで身につけるという、一番大切なことがぬけている。このような知識人の吐く言葉は軽い。なぜなら、そこには実践を通して乗ってゆく言霊がないからである。よくピッチャーが投げる球を解説者は「彼の玉は重い。」などと言う。巨人の星の星飛雄馬も球質の軽さに悩んで大リーグボール養成ギブスでその弱点を克服しようとした。私は人と向き合う時は、その人の「言葉の重さ」この点にとても注意する。その人の本心からでた言葉には必ず言霊が宿っているから。言葉だけに意識を向けて頭で理解しようとすると内容が正しいかどうかが重要になる。そこに詐欺が生まれるすき間が生まれる。「理路整然とした正しいが軽い話し」これが社会では一番の曲者だ。これも普段しっかりと定義しておくことで少しは防ぐことができる。

 「はたらく」ということもそうだ。「働く」とは本来2つの意味があって、「成果をあげる」ということと「職に就く」という二つの意味を含んでいる。この定義の違う人間が入り混じるとたいへんやっかいなこととなる。つまり、勤労者と労働者という根本的に違う二種類の人間が混じって会社がうまくゆくはずがない。

 経営者はしっかりと、まずこの違いを把握することから始めないと後々大変なことになる。

 ほとんどの人は「日常不都合が生じない。」というたったそれだけの理由で、何となく言葉を活かし、何となく他人とコミュニケーションが取れたような気になっている。しかし、問題が生じて突きつめて話していくと必ず、「そんな意味で言ったのではないのに。」という言葉に行きつく。本当にしっかりと理解し合おうと思えば、まず、ひとつひとつの言葉をしっかりと定義した上でコミュニケーションをしなければならない。

ビジネスで立場や地位が上に行くほどこの定義ができていることがリーダーシップの本質になると私は思っている。逆に言えば、若いうちから物事の定義が明確にできていることが将来人の上に立ったり出世する要件であり、頭が良いとか、学歴があることは、公務員や会社員はいざ知らず、少なくとも企業家として持続的に成功することは不可能だと思っている。

 「生きることとは」 「幸せとは」 「神とは」 「父とは」 「母とは」 「男とは」 「女とは」 「結婚とは」等々自分よがりでない定義をすることはとても大事だが、一方でとても難しい。常に考えるという習慣だけが自分を創る唯一の道だと私は思う。


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2008年10月07日

孫子の兵法

 先日、私の友人の市会議員さんがフッと漏らしていたことを今日は書いてみようと思う。
事務所に居る時に韓非子を呼んでいると、スタッフから「やっぱり政治家はどうやって人を使ったり利用しようかと考えているんですね。」と揶揄されたらしい。そのことでとても傷ついたとなげいていた。彼は本気で日本を憂えている。そして、政治家としての志もしっかりしている。今どき珍しい政治家です。だからこそ、韓非子や孫子をしっかりと学んでおいて欲しいと私は思う。政治家という公に近い立場であるという特殊性がある。


 もし私達の代表あるいは日本の代表として諸外国の政治家と渡り合って、少なくとも我々の願いは国益を守るためには、したたかに外国の政治家を呑み込んできてほしい。それには孫子や韓非子はどうしても自分のものにしておいてほしい課目と言える。孫子の兵法の本家の中国では、兵法をより一般的にした三十六計という兵法を子供の頃より身に付けさせている。四字熟語にして日常で使ったり、漫画で兵法を説明する本も出ている。このような中で育った中国人はある意味日本の側から見れば実に狡猾だ。
世界とはそういうものだ。

 日本は単一民族で島国育ちだから、とても人を信用し良い社会を築いてきた。これは世界から見ればある意味うらやましい。戦争に敗れて領主が変わっても、領民には大差はない。一方中国は民族自体まで虐げられるまで追いつめられる。アメリカも自らの身を守るために銃を持ち歩いている。そんな日本を取り巻く物騒な世界の国々と対峙しなければならなくなった現代社会では、兵法を学ぶことは当たり前のことであって、決して人目を隠れて学ぶものではない。

 もし兵法を学ぶことが悪であるなら、自衛隊の存在すら悪となる。確かに自衛隊に対しては存在さえも悪という自らが愛する人々が目の前で凌辱されているのを指をくわえて見ていろと言うのだろうか?

 要するに、孫子の兵法や韓非子、自衛隊も全て、「知っているから使う」のか「知っているのと使う使わないは別のこと」と見るのかなどその意味は異なる。少なくとも私はできるならあらゆることに精通しているべきだと思う。それらを理解した上で、どのように使うか、その判断基準がその人の哲学だと思う。

 しっかりとした哲学を持てば、それはちょうど原子力が発電に平和利用され、二酸化炭素の発生の少ないクリーンなエネルギーとして、人々の役に立っているのと同じだ。

 もちろん核燃料廃棄物の問題も一方には有るが、これは地球温暖化とのどちらの問題がより重要なのであって、それを判断することがまさに政治の領域なわけである。

 今の時代汚い政治家が多いからこそ私は立派な政治家になりそうな若者を精一杯応援するのが私達の努めだと思う。

 つくづく頑張って欲しいと思う。


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2008年10月04日

秋ですね。またコラムを始めます。

 以前からこのページのコラムをお読みいただいていた皆様には大変お久しぶりのことです。TOKI-WA-SOHの在り方を含め、ホームページを一新しておりました。その間3ヶ月ほどコラムはお休みになっていました。
 以前は「イワタてつがく」と題して書いておりましたけれども、今回からは「舘主のひとりごと」となりました。と言っても、当の本人には全く違いはなく、つれづれなるままに心に浮かんだ事々をただ書くのみというスタンスは以前のままです。


 10月に入り朝晩はめっきり涼しくなってきた今日、この頃です。なんとなく「てつがく」をするにはぴったりの季節となりました。
今までの3ヶ月の間のことで少し触れておきたいことを今日は書こうと思います。


 ちょうど7月から大阪の吹田で「お母さんの学習塾」という名のお母さんの学びと連帯の教室を始めることとなりました。教育問題を軸に熱心に議員活動をしている友人の吹田市議である神谷議員と一緒に企画しました。最近は核家族がほとんどで、子育てはもっぱらお母さんの役目です。マンションの一室で一日中お子様と向き合って精神的にも肉体的にもいっぱいいっぱいの毎日です。たいていは子育ての経験がありませんから、初めての子育てで、うまくいかないのが一般的です。どうしていいのかわからない中でも子育ては待ったなしです。

 誰でも経験がおありだと思いますが、行き詰まりを打壊する時は、ちょっとした発想の転換とか、誰かのアドバイスで、スーッと開けたりするものです。そしてもうひとつ、同じような悩みを持つお母さんがお互いにアドバイスし合ったり、結婚前のお母さん予備軍の後輩達に貴重な学びを提供されたりと、自分で言うのも何ですが、実りの多い場だと持参しております。

 少しではありますが、お伝えしたいと思います。

「一隅照」という伝教太師(最澄)のお言葉を聞いて、皆さんの照らすべき一隅というものを改めて考えてみましょうというという時間を作りました。
「一隅照」という言葉は皆さんあまりご存じないようでしたので少し説明が必要でした。
以下のような内容です。
 「国にとって大事な物とは何か。それは道心である。道心とは仏道に入り、真の道を求める心で、菩提心ともいう。邪悪を捨て、善・正につこうとする心のことである。道心ある人が国宝となる。だから昔から言われていることだが、金銭・財宝は国宝ではない。一隅を照らすという、家庭や職場など、一人ひとりが自分自身の置かれた場所で精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一隅を照らす道心ある人をめざそう。」

 皆さんそれぞれに「私の一隅」を発表されました。Aさんは、まだご結婚されていません。現在は会社員をされています。彼女は「今の私の一隅は職場です。その職場の皆が私がそこに居ることで働きやすいと言ってもらえるように努力をしていきます。」とのこと。私達日本人であれば、そう不思議とは思えないことですが、このように言える女性の社員の居る国は、世界では稀だと私は思っています。きっと素敵な奥さん、お母さんになられるでしょう。

 Bさんは婚約者と同居を初められました。「彼がお家に帰ってきた時、何よりくつろげる場所にしておくこと。それから、近所の子供達には、明るく挨拶ができるようになるまで、うるさいほど挨拶をするとのこと。」これまた素敵な一隅照ですね。
女性の一隅照って肩の力がぬけていて、自然体な感じがとてもいいです。

 Cさんは神谷議員のスタッフで独身。「私は神谷議員が目一杯仕事ができるようなお手伝いができることが今の私の一隅照です。」とのこと。やはり議員の人柄にプラス、頼りになるスタッフ。この両方が無ければいけません。

 Dさんは今回が初参加。もうすでに自費を投じて子供達の夏合宿の場の提供をされています。「世の中はもう役人や政治家には任せておけない。市民ひとりひとりが立ち上がって、何か世の中を変えたい。」とのこと。
すでに一隅照がしっかり見えておられるだけでなく、実際に行動に移されておられることが素晴らしい。直感でどうすることが世直しかをつかんでおられます。私もいろいろと今後ご指導いただこうと思いました。

 Eさんは現在お二人の娘さんの子育てまっ最中。いつも生後6ヶ月くらいの次女を抱きながらの聴講です。うれしいことに、ずっと泣くことはほとんどなく一緒に聴いてくれる可愛い赤ちゃん。みんなのアイドルです。赤ちゃんを見ると女性はみんな自分も産みたくなるようですね。Eさんは「私はこのようなお母さんの気づきがある場所の存在を身近なお母さんに是非知らせたい。あまりうまく言えないので、近々出版予定の私の著書を勧めようかと考えています。」とのこと。この場があることを知らせる一隅照。なんて、まさに講師冥利に尽きますね。

 最後はFさん。当日はお昼からの出席でした。こちらの教室に来たかったけれど、学校の花壇整備の仕事がどうしてもあったとのこと。殺風景な学校に花壇ができて、とても学校が花やかになったらしい。学校にお花が多いほど生徒達は優しくなるという相関関係があるらしい。「今の私は、学校の花壇を手入れして、子供達にきれいなお花を見せることが何よりの一隅照なのです。」と発表されました。小さな小さな事かもしれないけれど、ここは私がしっかりやらなきゃいけないと自覚を持って取り組んでおられるお母さん達。私は大きなことや、政治では世の中は本当の意味では良くならないんじゃないかと思い始めています。男という生き物はやれ学閥だの、やれ党だの、やれ派閥だのと群れをなして、大層なことばかりぶち上げて、足元に目をやったら、ごみがいっぱい散らかっているだけで、世の中ちっとも進歩していないのではないかとさえ思ってしまう。先日も石田梅岩先生の法要に参列しました。思想家たる梅岩先生の法要で挨拶に立ったのは行政の長と政治家の先生ばかり。学統を受け継ぎ、ささやかに心学を伝承している人の言葉は皆無。

 加えて参加者で梅岩先生を心酔しているという政治家の先生が、石門心学の読みを「いしもんしんがく」と読む有り様。名誉や肩書きで、いったい何が世の中に寄与できるのか考えさせられる。もちろんダムや道路も必要かもしれません。施設もそうでしょう。しかし、「仏作って魂入れず」のように、入れ物ばかりの行政で果たして良いのですか。お母さんは目立ったり大層なことは言われません。小さくても自分の一隅をしっかり見つめ頑張っておられます。私は日本の未来はお母さんに託されていると思っています。それはお母さんが政治家に立候補することでも、声高に権まりを叫ぶことでもありません。静かですが、確実に自分の一隅を照らし、次世代へつなぐバトンを母親の手で渡す偉大な使命を淡々と行うことだと思っています。私はそんなお母さんの少しでも助けになれたら、それは私の一隅照だと思っています。


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