2008年04月15日

「幸せ」のない国に生まれたかったと思う

 人は誰でも“幸せ”になりたいと思うと信じて疑わないのではないでしょうか。「当たり前じゃないか。今さら…」とお叱りを受けそうです。「でもね。」と私は思う。この世に存在しないものに対しては単語は生まれない。もし世の中が男女の区別が無かったら「人」という単語だけで足りる。男と女という単語は生まれない。もし、この世に「幸せ」というものが無かったら「幸せ」という単語は生まれない。でも、実は全く逆もあって、「不幸」が無くて「幸せ」な状態だけだったら、それは「日常」という単語は生み出せても、「幸せ」という概念は意識にのぼってこない。そう、「幸せ」が日常化している世界では「日常」こそが「幸せ」だという事になる。そんなおとぎ話のような世界は有りはしない。かと思いきや、この地球上には、つい最近まで、或るいは今も存在してるかも知れない。
 分明人と呼ばれるヨーロッパ人が入り込んでくる以前の南米アマゾンのインディオ達は、そんな世界の人々だったのです。彼らの部族には「幸せ」という単語は無い。彼らに何とか通訳をして、「幸せ」と思えるようなものを考えて貰った時の答えがとても素敵だった。敢えてそれらしいものを言うなら、と前置きし「家族みんなが病気をしないで元気な事」かなというのがその答えだった。
 私達文明人には当たり前に思えそうな事が彼らには幸せな事だ。そう!お高く構えて「幸せとは?」なんて問う必要は無いんだと教えられているように私は思った。私達は世の中が複雑になり過ぎて、シンプルな原点を忘れてしまっていると思う。もっと頭を使うのではなく、心を使って原点や本質を感じる自分を大切にしようと思う。
 私が幸せな状態というのは“笑う”という事が普通にある事だと思っている。この“笑う”という単語の語源は「童得」(わらわ・う)と書く。つまり童(わらし)を得るという事です。人は我が子を授かって、我が手に抱き上げると、誰もが例外無くする表情がある。それを人は“笑う”という単語に置き換えた。我が子を抱き上げる時ただ人は幸せなのだ。今、その単語の意味が変わろうとしている。
 我が子を抱き上げても、その子が自分の思い通りに振る舞わなければ敵意を持って殺してしまう親が増えた。本来その子がどうであれ、その子はコウノトリに授かったもので私有物では無い。だから存在そのものを大切に扱う智恵があった。
 子供を自分のものだと思う個人主義の広がりと共に、本来ただただ幸せな親子関係も時として不幸の元凶となる時代となった。やはり、恐ろしい時代になったと思う。


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