2008年04月13日

「連帯保証」を文化的にアプローチしまっせ!!

 今、チベットの人権を中国が抑圧しているという事で、世界の人々が北京オリンピックに反対の声をあげています。先日テレビのコメンテーターが、「アメリカはネイティブインディアンと上手く存しているのに、中国は抑圧しか知らない国だ!」と言っていました。「え、何を言うの??」と反抗する気力さえ失う程ですね。そのアメリカがインディアンを武力で抑圧した歴史認識の欠如も甚だしい。中国はチベットとはそこ迄徹底した武力衝突はまだ発生していない。なんて事を思いながらもテレビを観てる自分が居た。
 かと言って、私は中国の“中華思想”や“恨の文化”はあまりいただけない。中華思想はご存知のように、中国こそが世界の中心であり、世界の華であるという思想だ。だから中国は自らの正統性を主張しているだけなのだが、これがどうも世界の人々は気に食わない。例のギョウザの毒物混入の中国側のコメントに怒りをおぼえた方々は多いと思う。しかし、どこ迄も自分達が正しいという考え方の人々には通じないメンタリティーと言える。
 もう1つの“恨(ハン)の文化”は朝鮮でも色濃いのであるが、先祖の受けた恨みは末代迄語り継ぎ決して忘れてはならないという考え方だ。これはちょっと日本人とは相入れないですね。中国では、敵(かたき)の死んだ墓を暴いて恨みを晴らす事が先祖への孝行となる。文化や考え方が違うという事は、とても大きな事なのだ。
 ちょっと生臭い話になったので、ちょっと話題を替えて、又々京都人文化論を書いてみようと思う。
 京都の老舗(しにせ)の御茶屋さん等は、昔は「一見さんお断り」というルールが有りました。これは、御茶屋さんが、相手の事を十分知らないと満足のゆくおもてなしが出来無いから、初めての方はちょっとご遠慮下さいという意味なのですが、京都以外の人々にとっては、「何をお高くとまってるんだ!!」と少々お怒りを買う事になります。
 私達京都人は、会ってみたい相手に、飛び込みで会いに行くという事はまずしません。まず、自分の周辺の人々を辿りながら、目的の人物につながる最短かつ最適な人物を探し出します。そして必ずその人の紹介を取り付けてから会いに行きます。私はこれこそが本当の意味での京都人の「一見さんお断り」の文化だと思っています。
 日本には連帯保証という世界でも稀な民法がありますが、これは古くからの人の招介を取り付ける文化の名残りだと思っています。招介者が有るのと無いのとでは、別人かと思う位京都人の対応は全く異なります。ですから、一度相手の懐に入れたら、その付き合いの深さは又半端では無いのです。そこ迄入り込むのはとても大変です。そんなレベルですから、入り込んでも相手のレベルにこちらも居ないと、時間をかけて疎遠になってゆきます。それは京都の町衆の反骨精神にその理由があります。1200年の文化と思想の中心であったそのレベルの高さと誇りが、中途半端な“権威”による横暴や押し付けを我慢出来無いのです。長い物に巻かれていたら楽なのは分かっているのに、そこで反発してしまう町衆気質があるのです。
 大学でもそれがよく表れています。官の殿堂東京大学と、学の殿堂京都大学。官僚として国家を動かす体制派に属するのでは無く、自分という人間や、自分の感心を極め、人間として研究し続ける事を是とし、結果的に孤高になるのです。
 “善の研究”で有名な哲学者であり、哲学の道の主人公の西田幾太郎教授は、正にそのような好例です。又、滝川事件(※)等でも分かるように、自分の学問を守るためには、権力と戦う事も辞さないような純粋性もあります。この頑なさと純粋性が生み出した京文化や京都ブランドに人々は憧れるのです。ただ、ブランドになると偽ブランドが横行してくるように、「ブランドである事イコール京都である」という本質的軸が、「京都イコールブランドである」という浅薄な連中の考えでずれてゆく今日この頃です。
 くれぐれも偽京都人と偽京都ブランドにはご用心下さい。本物の京都人は取り付きにくい事をくれぐれもお忘れなく…。

(※)日本が国際連盟を脱退した1933年5月、当時の文相鳩山一郎は京都大学法学部教授滝川幸辰の刑法学説をマルクス主義的であるとして休職処分を発令、著書を発禁にした。これに抗議して法学部教官が辞職、学生やジャーナリズムも反対に立った。ファシズムが色濃くなる戦前の日本において、京都大学で起きた学問の自由及び思想弾圧事件。


●TOKI-WA-SOHオフィシャルサイトはこちらからどうぞ