2008年03月31日

「エイプリル・フール」

 明日は4月1日。欧米では嘘をついても良い日なのだ。つまり、本来嘘はいけない事だけれど、例外として4月1日があるという事らしい。嘘にも例外規定があるようだ。
 今日も正論について又こだわってみよう。
 「人には嘘をついてはいけません!」というのが正論だと人は言うでしょう。今も「もちろん」というささやきが聞こえてきた。「でも!」と私は思う。所詮、「嘘をついてはいけない!!!」は正論だと思う。つまり、人間社会においては、必ずしも嘘をつく事が間違いでは無い事が多々ある。
 例えば、末期の癌患者に全て有りのまま正しい病状を伝える事が、その人の為に必ずなるのだろうか?私はそうは思わない。或いは、別段自分の趣味では無くとも「とてもそのお洋服素敵ですね。お似合いですね~」と言う事は世の中の潤滑油だ。こんな事を書くと「何を細かい事を言っている!!」とお叱りを受けるかも知れない。
 それなら、天下分け目の関ヶ原の合戦に臨むに先立ち、豊臣方の主だった武将に書状を送り、寝返るようにうながしておいて、天下を取った暁には、彼等を皆葬り去った徳川家康は、天下を取って征夷大将軍として君臨したでは無いのか?
 そもそも、正論、正論という輩は、知識人であっても知恵者では無い。ジャンケンを見ると良い。ジャンケンには3つの選択肢がある。1つは勝ち、1つは負け、そして後1つはあいこ。これが世の中というものだ。物理学の及ばない人理の世界には、引き分けもある。いや、もっと言うなら、「負けるが勝ち」という選択肢もある。
 我国は日中戦争の折り、毛沢東率いる八路軍にこの戦術を仕掛けられて負けている。毛沢東はわざと追いつめられるように西安まで後退し、地の理と背水の陣による志気の高揚をもって、後の戦局を有利に転換した。語録、「優れた全戦計画が無ければ初戦の勝利も勝利では無い」と喝破(かっぱ)している。
 知恵者は、その局面で正しいの正しく無いのとそんな事に気を奪われず、大局観を持って全体を見据えている。賢人曰く、「仏の嘘を方便と言い、武将のうそを知略と言い、商人の嘘を駆け引きと言う」
 昨今、器の大きな人物が、殊の外少なくなった。勝ち組だの負け組等と言ってきゅうきゅうしている人種には、凡そ「負けるが勝ち」なんて世界観は、死んでも理解出来るものでは無いだろう。私の人生は、殆ど連戦連敗で負け組だ。
 「負けるが勝ち」は私の負け惜しみなのだ。ハッハッハッ


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2008年03月30日

意見の一致は急いで求めてはいけない

 4月1日からガソリンが25円値下がる。ご存知のように、衆議院と参議院での最大与党が異なるねじれ国会が生み出した現象だ。そもそも参議院選挙で国民が今の自民党に「No!」を突き付けた結果であり、このねじれは正に民意の表れなのだ。だからこそ長年に渡って隠ぺいされて来た自民党の横暴が白日の元に暴き出されたのである。
 「混乱は困る、困る」と自民党の幹事長はしきりに言うが、困らなければ次のより良い政治やより良い世の中を考えるきっかけが生まれないのであって、困った事が生じる時こそ、自己変革の好機だという事は経営者の世界では当たり前の事なのだ。そうやって移り変わる時代に合わせて経営の舵取りをして来たものだ。
 私ははっきりと断言する。政治家のレベルが経営者よりも遥かに遥かに低いから、企業は良くなっても国が良くなる兆しは全く無いのだ。しかしそれも仕方無い。たった独りで志を立て「先生、先生」と呼ばれて成立する政治家には到達出来るのは「正論」の域だ。正論をぶつけ合って一歩も引かない自民と民主の論戦を見れば明白だ。
 最近とても多くなった松下政経塾出身という政治家に出逢うようになったが、彼等も本質が分かっちゃいない。「え?何が本質かって?」「政治家のあんたらの元締め、大親分は松下幸之助という一経営者だって事」つまり、立派な経営者が、政治家を育てるっていうこの師弟関係の上下を忘れてしまってる。だから歳入を超えた歳出なんて予算を何年にも渡って組み続けても、自分は「先生」と呼ばれて全く平気なのだ。武士道の国のなれの果てをここに見る。亡国の日本。もっともっと混乱するがいい。
 成果を上げる者は意図的に意見の不一致を作り上げる。そうする事によって、もっともらしい間違っている意見や不完全な意見によってだまされる事を防ぐ。そして最後にその意見の不一致の原因を突き止める。あまり上手くは無いが、朝まで生テレビの田原氏はこの手法をよくあからさまに用いて議論の不整合や深まりを出そうとしている。よく観るといい。そもそも意見が一致する事が重要なのでは無く、どの深度で一致するか、つまり「認識レベルの深度」が重要なのだ。そして意見が食い違うという事は「深度差」があるという事と同義なのだ。国民は一時的な混乱は我慢するから、今こそ深いレベルの話し合いをして本質的解決を導き出して欲しいと思っている。思っているけど無理でしょう。
 混乱を恐れる者は自らの信念が軟弱であり、自らの実力に本当に自信の無い頭だけの先生が正論という道具を用いて臭いものに蓋をする。本当に力のある者は正論では無く「実論」を吐き、そして自ら混乱を生み出し、病気の原因を洗い出し、より良い解決策で混乱を収拾する。これが出来る者は、今を生きる者にしか身に付かない。
 所詮、机の上での勉強は実践では殆ど役に立たない。新米の士官学校出の士官と、歴戦の軍人たる軍曹を思い浮かべれば分かるだろう。
 松下幸之助先生は尋常小学校4年生が最終学歴だ。


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2008年03月27日

「正論」という事についてもう一度

 このコラムでも予想した通り、橋本さんが大阪府の知事となり、又自民党が民主党の追求に、旧来の既得特権を守りきれなくなってきた。徳川幕府が幕末維新であっけなく解体されたように、今、日本は大きく動き始めている。結果的には歴史上のキーマンや事件によって変革されてゆくのだが、そのエネルギーは時代とその民衆の意思という目に見えない、地下水流のような力だと思う。
 この国の人々の意思は、明らかに旧体制や役所の在り方に「ノー」と言っている。
 そんな中で、正に「正論」を引っさげて大阪府知事になった橋本さんは民意そのものだと思う。そんな橋本知事が、今大阪府議会等で苦しい対応を迫られている。まず、タレント弁護士時代に書いた著書の内容が、軍備止む無し的な内容であった事について質問された時に、「私は、今は24時間365日公人であり、私人の時の自分の意見についてはノーコメント」と、立場の変化を理由に突っぱねた。今度は、24時間365日公人であるという事につて、それでは、「今テレビに出演しているのは、全て公人となるが故に、全てノーギャラですね」と質問されて返答に苦しむという事となった。私は、「正論」と言う事は大切だけれども、それ程その事に評価はしない。「正論」を言うだけで世の中全て正しくなるのなら、政治家は皆大学教授や評論家から選べば良い。
 そもそも、正論は手段であって、より良い社会を作る事が目的である。今の若い政治家や高学歴の連中にはこの違いが分かっていない。それは、多くの思いや価値観の違い、その他諸々のものを1つにして、望むべき目標に連れてゆく、その力量、つまり「結果を出せる人間力」が無い。
 正論を吐く事をさせるのは見識だが、結果を出すという現実力は胆識からしか生まれない。そもそも正論を吐く事で成長が止まる人間には、教授や弁護士、タレントなど、ピンで生きてきた連中に多い。何故なら、彼等は仲間をまとめる苦労をしなくて良いから。
 肩書きのある人間や高学歴なだけの人間より、夫婦で商店をやってきたり、中小企業のオーナー等、肌感覚で世の中と向き合ってきた人には「うん、うん。何となく分かるよ」という感じで理解される。所謂世の中は「正論」だけでは動かない。
 物理学で世の中を考えると、「正論」さえ組み立てればそれで必ず上手く動く。ところが、世の中の理(ことわり)は、人理学(※)をもってしか計れない。世の中を動かしてゆくのは、正論では無く、「人情の機微」、「人柄」、「魅力」、「情がある」、このような事柄に精通し、その目的に向かってこれらを上手く発揮しながら一歩ずつ一歩ずつ時間をかけて進んでゆく。そういう人だけが結果を出せる。そのような人こそリーダーと呼ぶに相応しい。

 それでも私は、橋本知事が好きだ。本当に頑張って欲しいと思う。林英臣政経塾にも、橋本知事のような立派な若者がたくさん集まっている。しかし、彼らも主として志を立て政治家を目指したり、現職であったり、ピンで生きている。正論は吐けるがまだまだ青臭い。橋本知事に指南役があればなぁとつくづく思う。
 私は、志を持った素晴らしい若者が少ないのでは無く、多くの幕末の志士を育て導いた指南役こそが、今、この時代に不足していると感じている。もしも、そのような王道政治家を育てる指南役を見つけられたら、それはとても貴重な事だと思う。
 私は、いつも言っている事がある。「正論」を吐くな。「実論」を吐け、と。この「実論」というのは、私の造語であるが…。
 ※(注)「人理学」という言葉も私の造語のひとつです。


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2008年03月25日

宗教家と思想家を定義しようと思う

 昨晩もまた尋ねられた。「あのー、お仕事は何をされているのですか?」と、いろいろと答えると、「メインのお仕事は何ですか?」と又尋ねられる。
 大人の世界でお互いを知ろうとするのに、相手の職業を知る事はとても大切な事のようだ。とても曖昧な書き方をしているのは、私も大人であるにも関わらず、私の場合には相手の職業は殆ど気にならないからだ。この際、職業として敢えて答えるとするなら、経営者というものが概ね正しい返答じゃ無いかと思っている。
 ところがこれよりやっかいな質問が、「思想家って何ですか?」という質問だ。
 私は、最終的には思想家として世の中の役に立って死にたいと心に決めている。ところがこの話をすると、ほぼ100%返ってくる質問が、「宗教家と思想家とはどう違うのですか?」という質問なのです。とても明らかな事は、世間の人々にとって、「宗教家と思想家の区別が出来ていない」という事だ。ちょうど良い機会なので、この際自分の考える宗教家と思想家の定義をここにしておこうと思う。

 皆さんは“天国泥棒”という言葉をご存知でしょうか?或いは“善人なおもて往生す。いわんや悪人をや”という言葉をご存知でしょうか?この2つの言葉に宗教の特徴がよく表れている。
 “天国泥棒”とは。小さい頃から両親に手を引かれ、毎日曜日ごとに教会のミサに行う熱心なキリスト教徒がいる。死ぬまでの間、何十年もそれはそれは敬虔(けいけん)に祈り清貧に生きる。このような人々は死ぬと天国へ行く。成る程別に異存は無い。
 ところが、キリスト教の教えでは、懺悔(ざんげ)をして悔いを改めれば、例外無く神に救われるとする。従って、小さい頃からミサにも行かず、不貞、放蕩の限りを尽くしても、死の間際にそれを悔いて、教会へ行って神父の前懺悔をすると、全てが許され、天国に行けるという事になる。これでは長年真面目に信仰してきた信者から見ると、とても不公平に感じる。まるで後から来て天国を盗んでいったように見える。この不公平感を西洋では“天国泥棒”と呼ぶ。
 又、“善人なおもて往生す。いわんや悪人をや”というのは、浄土真宗の開祖親鸞上人の言葉で、「世の中の悪人と言われる人は、自ら悪事を働いて、厳しい罰を受け、それを人々に身をもって教えているのだから、やはりこのような悪人と呼ばれる人々にも天国へ往生出来る」と、まぁそんな事を言っているのである。加賀の一向衆は、この教えを曲解して「どうせ悪人も天国に行けるなら、どちらでもいいのだ」と考えて、かなり一揆の名のもとに、かなり傍若無人な事を成したらしい。
 これらから分かるように、極論すると、宗教は、「真面目にコツコツと生きた者の魂もヤクザ者の魂も、等しく救済する」という事になる。宗教家は、1つ1つの魂の救済こそが大目的であって、それぞれ一個の魂の救済によって、人間界全体で不公平が起こっても、そんな事を知った事じゃない。これを憲法でも信仰の自由として保護もしている。
 オウム真理教等は、そこに属する人々の心の平穏は保たれても、外の社会についての思慮が全く欠けているから、暴走すると、多くの人々を傷付けるという事も起こり得る。宗教は歴史上このような災禍を数多く生み出して来たし、今この時点でも生み出し続けている。
 一方思想家は、人々が死ぬまで生きる人間界において、他人同士が平穏に暮らしてゆくにはどのように考え行動したら善いか、その事に示唆を与えて導くのです。思想家は一個の魂の救済では無く、理に生きる貧減社会を救い、平穏を生み出そうとするのです。だからこそ、宗教よりも一部の過激な思想は社会から分離されているのです。
 日本国憲法でも政治と宗教を分離していますが、それは社会全体を見ない宗教家の視点で、社会を見る政治に口を挟むと世の中がおかしくなるからなのです、ところが、ここのところがしっかりと政治家にすら理解していないから、ある政党は殆どそこのところが明確に分離出来ていなかったり、ある政党の大物の母親がある宗教の大物で、その集票力をバックにしている、というような事も多々あります。 まあ、いずれも人間がやる事ですがら理屈通りにいかないのも事実です。
 世に宗教家や信興宗教家は多いのですが、評論家は居ても真の思想家はとても数少ない。この事実が世の中を混乱させるとても大きな一因だと私は思っている。
 思想家と政治家の関係は陰陽五行の研究者である陰明師と、その理論を人々に伝える占い師のような関係に似ていると思っている、ところが、陰明学が廃れて、占い師達が都合よい解釈をして世の中を惑しているように、思想家がいなくなって、政治家が自分達の党利党略のみに固執して、国家を省みなくってこの国は久しい。 


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2008年03月24日

老子第81章「信言美ならず、美言信ならず」

 日本の国技相撲道。その頂点に立つ横綱には、強さだけで無く、横綱としての品格や風格が求められる。例え全勝で優勝したとしても、一応必ず横綱審議会というものがあって、必ずそこで一度横綱に相応しいかどうかの審議がなされるのもその為だ。
 しかし、その審議する判断基準が何なのかと問われると、はなはだ曖昧なのが現状だと思う。それは、相撲が、相撲道という道から逸れ、興業という要素が強くなってからおかしくなった。それは、丁度、テレビがお茶の間に普及し始めた頃と軌を一にしている。
 昔の日本精神が薄れ、資本の理論がはびこるに従って、「道」の思想は薄れていった。しかし、以前は、人々の心の中にその基準はあった。今日はその事について触れてみようと思う。

 「われ未だ木鶏たりえず」という双葉山の言葉をご存知だろうか。明治45年大分県に生まれる。相撲界に昭和2年に入門し、昭和12年に横綱となる。双葉山は、相撲界の連勝記録を150年ぶりに塗り替えた。その記録というのは、昭和14年安芸ノ海に破れるまで69連勝したものだ。そして、その双葉山が安芸ノ海に破れた時に漏らした言葉が、「われ未だ木鶏たりえず」という言葉なのだ。双葉山は、横綱としての目ざすべき境地を「木鶏(もっけい)」に置いていた事が伺える。つまり、相撲道という道を極めた先には、木鶏のような横綱がそこにいるという事であり、そのために日々精進する者こそが横綱たり得ると考えられていた事が読み取られる。昔はこういう心構えを日本では教える師が居たのだとつくづく感心させられる。今の日本は寂しいと嘆きたくないけれど、つい口に出してしまう。微力ながらも少しでも私は深い人生哲学や帝王学伝えてゆこうと思う。

 まずは、この「木鶏」の境地について説明しなければならない。

 それは、こんな話である。
 昔、紀悄子という闘鶏飼いの名人が、王様から一羽の鶏の訓練をおおせつかった。10日ほど経って、王様が様子をたずねた。
「どうだ。もう使えるのではないかな」
紀■子が答えるには、
「いや、まだでございます。今はやみくもに殺気だって、しきりに敵を求めています」
それから10日たって王様がたずねた。
「もうそろそろではないか」
紀■子が答えた。
「いや、まだでございます。他の鶏の鳴き声を聞いたり、気配を感じたりしますと、とたんに闘志をみなぎらせます」
また10日たって王様がたずねると、
「いや、まだでございます。他の鶏の姿を見ると、睨み付けたり、いきりたったりします」
さらに10日たって王様がたずねると、ようやくこんな返事が返ってきた。
「もうよろしゅうございましょう。側で他の鶏がいくら鳴いて挑んでも、いっこうに動ずる気配がありません。まるで木彫りの鶏のようです。これこそ徳が充満している証拠。こうなれば、しめたもの。どんな鶏でもかないません。この姿を見ただけで、みんな尻尾を巻いて逃げ出していくでしょう」

 どうですか?双葉山の目指していた境地が少しは理解していただけたでしょうか。理解出来る事と、実践出来る事は、とても大きな違いがありますが、でも知らなければ目指す事も無いのですから、まずお勉強をして、そういう境地があるという事を知らなければならないと思うのです。

 老子第81章も又、この木鶏の境地に似たものを我々に教えてくれています。
 「信言美ならず、美言信ならず」
 真実の言葉は飾り気がない。飾り気のある言葉は真実では無い。明知の人は物知りでは無い。物知りは明知に欠けている。立派な人物は多弁では無い。多弁な人物は本物では無い。「道」を体得した人物は溜め込まない。人に分け与える事によって、いよいよ豊かになる。天は万物を損なわず、ひたすら恵みを与える。「道」を体得した人物も、人と争わず、ひらすら人の為に尽くす。
 老子の語る境地は、正に東洋の英知で有り、西洋の人間にはなかなか理解出来無い。
 ところが近年、西洋の進んだ知識人や文化人がこの東洋の英知に注目し、本家の中国や日本では忘れられていっているとは、本当に皮肉な事だとつくづく思う。老子ほどの帝王学は何処にも無い。
 私は老子にぞっこん惚れている。


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2008年03月23日

指導者は信念によって立つのであって、正論に因るものでは無いのだ。

 「正論」って一体何なんだろうとつくづく思う。若い政治家の諸君と話をしていると、よくこの問題に突き当たる。正論を通すのが政治家だと考えているんじゃ無いかと思う。自らの正論を突き通さずして何か政治家として生きる意味が有るのかという位の勢いだ。
 私は、実はこの正論というものが、実はとしても曲者だと思っている。今の日銀総裁の人事について、日銀の独立性という正論で旧大蔵省或いは財務省経験者採用には、民主党は頑として反対している。或いは、京都市長選挙でも、三党相乗りの市役所という内部候補に厳しい改革等出来無い、という正論で、若い政治家が市長に立候補した。私はやはり違和感がある。
 その違和感というのは、政治家としての考慮の深さに疑問を持つからだ。そもそも、政治の目的は信念に基づいた世界を創るという事。そんな正論と信念の区別が付いていないように思うからだ。正論はあくまで、信念を実現するための一要素でしか無い。ところが、人間というものは、正論だと強く信じている事に反論や質問を受けると、自分という人格に攻撃を受けているような勘違いをする。実は、正論なんてものは元々この世には存在しない。
 正論は時代によって、いくらでも変化する。ソビエトを見れば解る。中国だってそうだ。あれ程多くの若者が夢を描いて命懸けで勝ち取ろうとした共産主義のなれの果てだ。日本やアメリカだってそうだ。誰がベトナム戦争やイラン・イラク戦争を正論だと信じているのだろう。日本は戦前の正論と戦後の正論は真逆だ。
 戦後民主主義の名の元に、全てを葬り去った末が今の日本の姿だ。正論によって物事を進める事は必ず失敗をする。信念を持ちながら、時代最適を考え、実行する事が私の正論だ。おっと、私も同じ種類の人間みたいだ。気を付けなきゃ。
 もう1つは、正論という論の裏付けになる考え方が、現代では、もう殆ど物理的に拠っているという事が、正論を危うくしている原因だ。中国の帝王学老子では、帝王(現代で言えばリーダーになるのだが)には四段階有ると言っている。そもそも最近の若者は、昔の日本のように、中国思想や帝王学を殆ど学ばずに世の中に出ていってしまう。これはとても忌忌しき(ゆゆしき)事なのだが。戦後日教組中心の教育が蔓延し、このような思想が排除されてしまったから仕方が無い。だから懐の深い人間が成熟する迄に、正論を振りかざさず、インテリの横行が広がってしまう。正論ばかりで人間味の無い上司にはほとほと皆愛想をつかしている癖に…。ちょっと間が抜けていても、人間味のある温かい人が慕われるのは人理学的な正論だ。つまり、物理学では非の打ちどころの無い論が正論なのだが、人理学的では、少しの逃げ道や愛嬌のある論が正論なのだ。若い間は人間はとかく正論と連呼しがちだ。
 おっと、老子のリーダー四段階からかなり横道を逸れちゃいましたね。老子曰く、指導者として最高なのは「部下から存在する事さえ意識されない指導者」、次は「部下から敬愛される指導者」、三番目は「部下から恐れられる指導者」、最悪なのは「部下に馬鹿にされる指導者」と言っている。もし、この老子の帝王学を知らないと、「部下から敬愛される指導者」を最善と考え、そこで成長が止まる。だいたい、欧米の帝王学を学んでいる奴はここで止まるね。だから、私が超一流について話をしても殆どポカンと口を開けている。私はそれを一流止まりと称している。
 そんな時、分り易い様に、次のように言う。「タイガー・ウッズにさえもコーチがいるんだよ」って。アレクサンダー大王にだって、帝王学の先生としてアリストテレスが付いていたと言われている。
 つまり、帝王学とは、帝王学自身では無く、思想家にあるという事だ。だからこそ、帝王となっても、師から学ぶのが帝王なのだ。ゴルフをすれば誰よりも強いはずのタイガー・ウッズでさえ、独りでは無いのだ。
 物理学的に言えば「世界最高のプレーヤーに対してアドバイス出来る人間等居ない」という正論になるだろうが、人間界ではちとそうはいかないんだな。だったら、日本最高のプロ野球監督は、王さんか長嶋さんで決定とかって話になるんだからね。
 つくづく思想という世界は奥が深いと思う。あんまりハマり過ぎると、私のように経営者としては障害がある。でも、「自分が無知であるという事に気付いている分、あなた達よりも賢い」と言ったソクラテスの哲理はグッと心にしみ渡る。
 正論と信念を混同しない事。帝王の最高は、実は、空気のような人。こんな事を知る事で又人生が深まる。今の中国は好きじゃないけど、中国思想はつくづく面白いと思う。


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2008年03月20日

肉体と魂の関係における一考察なんてたいそうな話では無いけれど…

 ちょっとスピリチュアルな事を今日は書こうかな。
 世の中の不思議体験の1つに幽体離脱というものが在る。臨死体験の話では、必ずセットのようにこの話が出る。もう1人の自分が高い所から眠っている自分を見下ろしているというもの。
 魂というものは、意外に皆さんが思っているよりも簡単に人間の肉体を出たり入ったりするものと言える現象のように思う。
 実は私も、魂が抜ける経験をした事が有る。これは幽体離脱では無かった。指の先から魂がドロドロと溶けて流れ出す感覚だった。その後は正に夢遊病者のように腑抜け状態になる。これは人生で二度有った。空虚感が絶頂を超えて生きる意味が喪失すると、この経験が出来る。そんな経験もしながら、私独自の魂理論が出来上がった。
 今日はそれを書こうと言うのだ。そもそも一般に信じられている肉体と魂の関係は「肉体に魂が宿っており、肉体が失われると、魂はその肉体から離れ転生を繰り返して、魂が磨かれていく」とされている。それはどの本を読んでもそのように書かれている。私は自分の実体験を踏まえて考えると、どうもそれは全てを信ずるには足りないという結論になる。
 確かに、肉体という魂の入れ物が失われる瞬間は魂が肉体を離れる。この事には私も異論が無い。ただ、肉体という入れ物が生きていて十分機能している間の肉体と魂の関係に疑いがある。
 ヤドカリは体が大きくなると、自分の今入っている貝殻を出て、ピッタリサイズの貝殻を探して入れ替わる。肉体と魂の関係はそんな風になっているのじゃないかと思う。
 子供の頃の友達も大きくなるに従って、磨かれ方の差によってウマが合わなくなると共に、新しい有人が出てくるように、肉体が生きている間は、いろんな魂が出入りする人もいるのでは無いだろうかと思う。ただ、やみくもにいろいろな魂が出入りするのでは無く、ある法則によって出入りするようになっているのでは無いかと思う。ある時何かが乗り移ったとか、全く違う自分になったとか、普通はあんまり意識出来無いのだが、中にはこの瞬間も分かる場合が有ったりするのでは無いかと考えている。同じ肉体でも、魂を磨くのに適した肉体と、そうでは無い肉体が有るのでは無いかとも思う。それは生まれた時は分からない。新入社員の適材適所が分からないように、とにかく、ある魂とセットで生まれて来る。そして、その肉体で磨き上げて、尚生きている場合には、より高いレベルの魂と入れ替えて、又磨かせるのでは無いだろうか。又その逆も在って、高いレベルの魂を宿していても、何らかの理由で磨きにくい、或いは磨かない肉体も有るだろう。
 仏生は、全ての人間に宿っている。という事はこれで説明出来るように思う。
 結論を言うと「肉体が生きている間には、魂が何度も入れ替わる場合が有る」という事だ。
 少なくとも、私はそう考えている。今の魂をどんどん磨いて、生きている間に何回、そしてどんな魂を出し入れできるのだろうかとワクワクしている。
 何も今回の生で肉体と魂のペアは一回きりと考える必要は無いだろう。女房や友人もどんどん替えるのが世の常、人の世とするなら、肉体と魂の関係も入れ替わると考える方が自然なような気がするのは私だけだろうか? こんなことを書くと、移り気で、女房を何度も入れ替えていると誤解されると困るので、申し上げますと、女性の方の勉強はとんと奥手で、死ぬ迄今の女房とペアのままだと思います。と日記には書いておこう…。


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2008年03月19日

TOKI-WA-SOH展覧会について

 TOKI-WA-SOHでは、3月20日から4月6日まで、デザイナーを目指す若者達が、TOKI-WA-SOHをギャラリー替わりに、作品の発表会を催す事になった。私は彼等と2年位のお付き合いになるのだが、正直その技術とレベルの高さに驚かされる。特に私は歌と絵は恐ろしい程の音痴だから、尚更なのかも知れない。
 逆にどの若者もその技術やセンスが高い分、デザイナーの世界で生き残るのは大変だろうと、つくづく思う。
 そんな中で気付かされた事をここに少し記述しようと思う。私も小さな企業の経営者である。小さいと言っても、デザインと無縁である訳では無い。例えば名刺1つ取っても、所謂CIというものでも、やはりカッコイイものを創りたいと思う。クライアントの立場からデザイナーを見ると、一番大切なのは技術力より対人関係。そのデザイナーと話をしていると楽しくなって来るか?こちらの希望をちゃんと理解してくれるか?約束はきちんと守れるか?等々…、実はセンスや技術的な事とは別次元の事がとても重要な要素なのだ。ところが、若い学生さん達は、デザインの勉強が殆どの部分で、次はデザイナーとして生きてゆけるかどうかを決めるパーソナリティーの部分が疎かになっている。自分だけの思い込みが激しく、人を平気で陥れたり裏切ったり、世話になった恩師を適当に利用したり等、目先の問題しか見ず、価値観がおかしく、それでも表面的には上手く態度を繕うものだから、信頼出来にくい。でも、これは仕方の無い事だ。デザイナーを志して社会に出て、食べてゆけないとしたら、そしてそれがデザイナーの能力とは違うところが決めているとしたら、皮肉な事だと思う。
 何度も言うが、クライアント自身はあまりデザインに詳しいはずは無い。だから、デザイナーが独りよがりに創り出したデザインを押し付けるのでは無く、クライアントにとってどのデザインが最適で、HAPPYだと心から思い込ませて貰えれば、それに愛着という思いが入り込んで、実はとても素晴らしいものになってゆくような気がする。昔の仏師の諺で、「仏作って魂入れず」というものがある。デザインという世界も実はそうなんじゃ無いかと思う。一流とそうでも無いものを分けるものがあるとするなら、デザインに魂を込める力を持っているかどうかという事だと思う。
 決して精緻な仏像では無い「円空仏」が多くの人々に愛されて止まないのは、その意匠以上にその仏に宿る魂に心が揺さぶられるからに過ぎない。
 老婆心ながら、一生懸命頑張っている若者達を見ていて、つい書いてしまった。
 彼、彼女等は、本当にとてもいい子達だ。真面目で頑張り屋さんだ。だからこそ、これからの人生でも成功していって欲しいと願う。
 私の目から見ていると、「いい子達だよ。本当にいい子達なんだ。でもね…」という感じ。
 人間は「いい人」で終わる事が多い。「いい人」から「出来る人」に飛躍して欲しいと願う。
 
 どうか是非一度、TOKI-WA-SOHに足を運んで、若者達の作品に触れてあげて下さい。
 大人達の批評批判、叱咤激励が必要なんです。


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2008年03月18日

「これしか出来無い」わ・た・し

 最近、自民党の総裁福田首相の支持率がかなり下がっていますね。元々決断力なんて殆ど無く、調整力のみの人であるのにも関わらず、一国のリーダーになって、おまけにねじれ状態の日本の舵取りを任された訳ですから、無理も無いかも知れません。勢い巷ではリーダー待望論なんてものが沸き起こる。
 ちょっと待って下さいよ。「リーダー出て来い。リーダー出て来い!!」と言いますが、そもそも人間は1人1人確固たるリーダーなんじゃないですかね。え?俺は学生だ。俺は平社員だ。俺は下積みだ。だからリーダーなんかじゃない。そんな顔で人々は生きていますね。でもね、私は言いたい。是非言いたい。あなたは、あなた自身の人生劇場の脚本家であり、プロデューサーであり、監督であり、ましてや主演者なんですよ。あなたはあなたの人生のたった1人のリーダーですよ。
 職人と呼ばれる世界で永年生きて来た人や、或いは若い頃からずーっとその仕事しかして来なかった人は、「俺はこれしか出来ないから」という特徴的な言葉を吐く事が多い。10代の頃に自分が何たるかも分からないままに飛び込んだ世界、その世界こそが自分がこの世で唯一目指していた世界だったと言い切れますか?その上で、「俺はこれしか出来無い」と言い切っているのでしょうか?
 昔、テレビのコマーシャルで高倉健が「不器用ですから…」とポツリと言うのがありました。正直カッコイイなぁと思った。しかし現実の世界はそんなに甘く無い事を大人になるにつれて知る。私の世代になると、若い頃の勢いが衰えて、人生に迷う日々に思い悩んだ末に、最後は自分の可能性を「俺はこれしか出来ない」という言葉で葬り去ってゆく。そんな晩年。
 そんな時、私は思う。この人は「これしか出来ない」のでは無く、「これしか出来ない自分にしている」と。人間の多くは“楽をして生きてゆけたら”を願う生き物らしい。1つの事にすがりついて他のものをシャットアウトして生きるのは、実は精神的にも頭脳的にもとても楽なのです。
 最終的には人間は自分の得意分野に集中すべきものなのですが、それは“これしか”という生き方ではなく、“これだけ”という生き方を指します。この言葉の違いと意味の違いの大きさに気付いて欲しい。
 人は生まれてから、悩み・考え・学び、自分のこの世での生の意味を探る。そしてその探り当てた先の生き方を「一隅照」と言う。つまり「俺はこれだけをやる」という生き様です。
 自分の人生が不満だったり、成功が見込めないなんて人間は、自分の人生劇場においてリーダーシップを発揮していないからに他ならない。まともに自分の人生すら主役をどう演じるかを真剣に考えもせず、ただ何となく今日を生きている。こういう人間は不平不満を言う資格がない。ところが現実社会ではこの資格のない奴が一番不平不満を言う。
 最後にフランスの高名な政治家ポアン・カレの言葉を伝えたいと思う。
「全てを疑うか、全てを信じるかは、2つとも都合がよい解決法である。どちらも我々は反省しないで済むからである」
 特定の宗教や特定の思想に取付かれた様な人々にこのような様を見る。或いは、マスコミの報道をそのまま疑いもなく流し込んでいる大衆。恐ろしい時代になったとつくづく思う。


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2008年03月17日

2008年3月16日午前5時42分~午前6時22分までの私

 今時計は午前5時42分を指している。3月の今頃はまだこの時間は夜が明けていない。いつもの飲み慣れたコーヒーを飲んだ所で、意識がとても研ぎすまされている。遠くで早起きのヒヨドリの鳴き声等が聞こえる。私のこの家は本当に静かだ。この静かさが私にはとても重要な環境なのだ。別に何かをしている訳ではない。ただボーッとしているだけだ。心は落ち着き、呼吸も実に穏やかだ。ちょっとギックリ腰の気があって、腰の痛いのが難点ではある。
 ここ2~3ヶ月の中で偶然にもたらされた情報やビジネスをノートに書き出してみる。又、ここ半年程の間に思い浮かんだり着手した事柄を別のページに書いてみる。
 この両者の中に、自分のこれからの人生の方向と、自分の内なる欲求とシンクロニシティーがあるらしい。正に本然の自生の発現だ。
 親の仕事の後を継いだり、大学卒業と共に公務員になって幸せな家庭に恵まれていたりすると、あまりそのような自分の心に耳も傾ける事も少ないだろう。
 NHKのBS2で4月5日から毎夜、黒澤明の全映画が放映されるそうだ。私はこの中の『生きる』という映画が好きだ。志村喬扮する公務員の主人公。出来るだけ波風を立てずに、ただただ停年まで無事に勤め上げようと思っていた、その停年の僅か手前で、体に不調が生じた。死を身近かに感じて、彼は自分の人生に深く思いを巡らす。「一体自分はどんな人生を歩んできたのか?」「本当は自分はどんな人生を歩みたかったのか?」「自分のこの世における存在意義とは?」深く深く内観し始める。正に彼は生まれて初めて哲学者になった。そして、彼が出した答えは、残りわずかな命と職を賭けて、長年地元の人々からの要望であった公園を誘致するために必死で奔走する。黒澤監督のメッセージは、この余命いくばくも無いその僅かな人生にこそ、その人間が本当の意味で“生きる” という事だと私達に教えている。
 1人の人間が生きて死ぬという事は、他人の人生と比較して決められるべきものでは無く、自分が決めた目標に、自分の力で一歩ずつ歩む、その事自体が生きるという証しであり、それが“幸福”というものなのだ。それは以前から自覚していたのだけれども、今日のような静かな朝には、もう一度自分の心に言い聞かせて、今の自分を肯定し、これからの人生をより良く生きようと再確認してしまう。
 こんな事を考えるのも、50歳にして今だに人生に迷い悩んでいる情けない私だからなのであって、決してお勧め出来る生き方では無い事は事実だと思う。
 ただ、物事を肯定的に考えようとするなら、この歳でまだかなりの未知の自分と可能性が有るとも言える。事実、阪神大震災のガレキの下に埋まった事で、一念発起し60歳でプロテストに合格したプロゴルファーもいるのだ。
 …等々と、ぐるぐる終わりの無い事に思いを馳せながら、こんなエッセイなのかコラムか分からないものを書いているのも、静かな朝と、文章を書く事が好きな性格のせいであって、誰が悪い訳でも無い。ただ世の中の出来事は、淡々と起こるべくして起こってゆくだけで、人間も本来は決して例外では無いはずなのだ。
 ただ今の時間、午前6時22分。すっかり夜は明けた。障子を開け、朝の光を呼び入れようと思う。


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2008年03月15日

「カリスマを勝手に考察してみる」

 カリスマ。これはドイツ語です。私はドイツ語は落第しました。だから、私がカリスマを考察する事はある意味、無茶な挑戦かもしれません。という訳で、今日の私のコラムはとても難解、意味不明になるかも知れないという事を先に断って責任を軽くしようと思っています。もっとも“カリスマ性”とは、なんて聞かれて、「はい、それは」、なんてスラスラ答えられる人がそうそう居るとも思えないですけれどね。
 さてさて、カリスマを辞書(大辞林)を引くと、【神から授けられた超自然的・超人間的・非日常的な資質・能力】と定義されています。どうです。この説明で分かりましたか?
 大抵は、分かんないですよね。カリスマ性って人生においての成功を、結構左右する要素のように思う訳なのですが。
 そこで、私は勝手にカリスマを定義してみようと思ったのです。私はカリスマ性とは、【その人自身に内在する非常に強い人格と才覚を言葉(有声語+無声語)を用いて、最高度に他者へ伝えられる能力を持っている事】と定義しました。
 “言葉”には、自分の頭の中にある考えを(これを五知という)という形を持たないものを、外部に表現するための手段としての道具として“言語”があります。これを有声語と名付けました。この有声語の受信機は頭脳です。もう1つ、自分の心の中にある感情や、精神性(五感)という形を持たないものを外部に形を持って表現する手段としての道具の身体表現語があります。これを無声語と名付ける事にしました。例えば、“親が子供をしっかりと抱きしめる”という事は、“愛しい”という気持ちを表現している無声語なのです。そして抱きしめられた相手にも、愛しいという気持ちが芽生えていれば、それは意味を伝え合う会話と言えるでしょう。
 言葉とは、正確さを受け持つ言語だけで無く、重量感や霊力を持つ言霊、この言語と言霊を合わせたものを言葉と称している事を忘れてはいけないと思います。
 言霊は、その人の思いや愛、経験など、言葉の“重み”を担うという役割があると思います。
 今、私達は科学が発達し、その科学万能の上に築かれた教育制度の中で幼少期を過ごして来ましたから、無意識の内に“正確性重視”の価値観になりがちです。多くの出来事を善悪良否の判別に反応し、その中にある“本心”に意識が向けられにくくなってしまった。人々の思いという一滴から今日の社会が生まれたにもかかわらず、形となった目に見える社会に意識が奪われ、人々の本心が忘れ去られてはいないでしょうか?
 心に愛のある人と愛のない人が、同じ「愛してるよ」という言語を発したとしても「愛してるよ」という言語の同一性に意味が奪われ、同じように理解したばかりに騙されるという事はよくあります。
 又、心は何となく違和感があっても、それを抑圧するだけの意識を持つが故に、人々は言葉の意味によって誘導され不幸になったとも言えます。言葉には、正確性と重量感があるという事をもう一度しっかり認識しましょう。
 言葉は、その性格さ故に人々に“感心”を提供する事が出来、重量感ゆえに人々に“感動”を与える事が出来る。
 私的に勝手にまとめますと、「人々は五知と五感にしっかり響く言葉を投げかけられる人が、人々から感心と感動を持って受け入れられ、尊敬されるようになり、時間と人数の増加と共に、それらがカリスマ性へと昇華してゆく。」


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●3月20日よりTOKI-WA-SOHにおいて、創造社デザイン専門学校在校生卒業生達による作品展覧会が行なわれます。是非お越しください。
展覧会詳細はこちら迄→http://command-j.x0.com/command-j/

2008年03月14日

新説「捨てる神あれば拾う神あり」

 人々は、もうどうしようも無く困り果てた時、神頼みをする。「神様、仏様、お釈迦様」等と口にする事がある。どうも困った時にも頼れる人はまだ3人居るという事なのだろうか?或いはこのようにも解釈出来るかも知れない→「仏陀、釈迦、釈迦牟尼」、これはある1人の聖人の呼称の違いであって、あくまでも「一聖人」という事である。
 仏陀は生き物の頂点に位置する者という意味であり、釈迦は悟りを開いた者という意味で、釈迦牟尼とは教えを説く人、或いは仏教の開祖というような意味と促えれば良いのではないだろうか。同じ1人の聖人であっても呼称が異なる場合もあるので、くれぐれも自分は誰かにすがりたいのかを明確にしてお願いしないと、内野フライをショートとレフトが譲り合って、誰も捕球出来ないなんてつまらない事も起こりかねないのでは無いだろうか?等と意味のあるような無いような事を書いているのは、昨日徹夜をして、今日は早くに寝ようと床に入ったのに、ちっとも眠れなくて、ボーッとする頭で思い浮かんだ事をツラツラ書いている事に由縁するのかも知れない。
 キリスト教だったかどうか忘れたのだけれども「天は自ら助くる者を助く」という言葉がある。私は実は常々思っている事なのだが、むやみやたらに追い詰められたら神頼みをするのでは無く、少なくとも、神様が救いの手を差し伸べてやろうとお考えになるに値する努力を影日向なくコツコツしている者にしか、神様は救いの手を差し伸べないのでは無いかと考えている。そのように考えると、「天は自ら助くる者を助く」という言葉にも合点が行くというものだ。「神に縋るな、神に縋るならその前に縋るに値する資格を持て」さしずめこういう事を1つの真理とでも言うのだろうか?
 もう1ひとつ、私が考えた神にまつわる真理らしきものがある。それは、「捨てる神あれば、拾う神あり」ということわざである。
 以前は私はこの解釈には、捨てる神様も居れば拾う神様も居る。つまり神様には正反2種類の神様がいるという事を言い表わしたことわざだと解釈していた。ところが、社会に出て、多くの経験をし、また多くの人々を観察する中で、どうもこの解釈ではしっくりこないと実感するに至った。
 例えば、倒産会社の社長でも2種類ある。
 自分や家族が生きてゆく財産はせっせと隠して、時期を見て倒産する。いわゆる計画倒産というヤツだ。これは銀行のお金をまんまとセシメて、何食わぬ顔で生きている。これが結構多い。このような人は、捨て切っていない倒産だと思う。一方、私財まで投げ打って、必死に頑張った末に力尽きて倒産する社長も居る (だろう)。こういう社長は捨てる神に憑かれたというか、捨てる神の手が差し伸べられたというか、現象的には前者の社長よりも遥かに悲惨で苦しいように見える。否、事実本当に厳しく苦しいと思う。しかし、この捨てる神に憑かれた人だけが…、もう一度言おう、捨てる神に憑かれた人だけが、次ぎに拾う神に憑かれる。つまり、捨てる神と拾う神は別々の神でありながらも、決して1人では何も新しいものが産み出せない。正に、私達の新しい命の誕生は、父と母の2つの性が協業して、初めて生み出される生命の誕生と軌を1つにしているでは無いか。そのような、1人の人間の再生の原理を言い表わした真理だとIWATAは解釈したのです。
 DNAは、その種が生命の危機に瀕したときに変異を遂げるように、1個の人間は捨てる神の手によって、とことん捨てさせられた時に変異を遂げるのだろう。この事は、とても私に深く考えさせると共に、確固たる哲学を創り上げるひとつの「気づき」でもある。


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2008年03月12日

「Made in Japan」

 日本は今、フィギュアが花盛りで、その造形技術は世界一なのだそうな。ところが、この技術、遥か昔から日本は得意としていたのには驚いた。
 例えば、日本各地に今も残る妖怪のミイラがそれらしい。河童や人魚、カラス天狗等、この世に存在しない妖怪をミイラにする専門の職人さんが居たらしい。特に人魚は海外、特に北欧の伝説に出てくるもので、日本では馴染みが無い。ところが、猿と鮭を上手く繋ぎ合わせてミイラにして、昔はオランダ等に輸出していたそうな。
 上記のような知識があってそのミイラを見ると、別に何と言う事はないのだが、全く知らずに、そのミイラをドーンと見せられようものなら、やっぱりドキッとする事間違いない。驚きや恐怖のあまり、感情に知性が押し殺されて冷静な判断力を失ってしまうのである。
 これと同じ心理状態にさせて人の心を誘導しているのが、今のテレビ番組の占星術やスピリチュアル等という類の番組である。あの常套手段は、誰もその真偽を見極められない世界の出来事を持ち出して、相手に驚きや恐怖心を与え、冷静な知性を封印し、マインドコントロールし易い状態に陥れて、自分の土俵へ引きずり込むというものだ。自分をしかりと創って来ていない人、若くして波に乗った人、知性より感性で生きて来たような人が、人生に迷っている時にこのようなスピリチュアカウンセラー等に相談したら、それこそ赤子の手を捻るようなもの。一発マインドコントロールされてしまう。このコラムを読んでいただいている方が、少しでもそんな不幸な目に遭わないように、今日はちょっとした基礎知識を伝授しよう。
 一般的に「予知」という言葉で語られがちなものですが、それらを深く観察すると、その中にも異なった種類がある。以下はその説明である。

1.「予測」…五知・四時を用いて三界に現れる有形の現象を計る(天気予報、穀物の出来等)。
2.「予知」…五知・五感・四時を用いて、三界に現れる有形・無形の事象を知る力をいう(経営判断や  監督等)。
3.「予知」…五感を用いて、三界に現れる有形・無形の現象を感じる力をいう(占星術師、占い師、予  言者等)。

 細かい説明は今回は省略しますが、予測は70~80%当たる。予知は40~50%当たる。予言はせいぜい10%位しか当たらないと考えておいたら良いと思う。テレビで有名なカウンセラーを見ていると、予言的なものをスパイスに入れて、人々をギョッとさせながらも、殆どの内容においては、五感より五知というものを用いている。純粋には予言者では無い。又、全く予言者であるなら、その内容が現実離れする部分や、検証不可能な部分が多過ぎて、視聴者が「意味わかんな~い」となって、番組として成立しない。
 元々は、東洋の予知学、予測学、予言学等を作り出したのは誰かと言えば、「陰陽学」の世界の人達だったのです。日本でも、安倍晴明に始まり、平成の頃には陰陽寮というものがありました。そこでは、中国から輸入された陰陽学、五行説思考、暦術、天文学等が研究され、数多くの予知・予測・予言の理論が生み出されたのです。ロケット物理学の博士が宇宙飛行士となって、宇宙へ行く事が無いように、陰陽の学者は研究はしていても、それらを大衆に分かり易く伝えたのが、占い師であり、宗教における僧侶や道士達であった訳です。彼らは心理を翻訳するために、“占い術”を数多く考案したのです。それ故、東洋では、予知・予測・予言の原理は、すべて陰陽学の中に閉じ籠ってしまい、占術のみが大衆の面前に存在しているという状態を生み出したのであります。
 人魚のミイラの実体を知っていれば、恐れることも畏怖する事も無いのですが、もし、それらの実体を知らないとするならば、人々はそのミイラに恐れ、畏怖し、ある時にはミイラのお告げ等というマヤカシに騙され人生まで誤る事すらあり得るのです。
 最も私達が恐れるべき事は、“自らの無知蒙昧(むちもうまい)”であって、妖怪や予言者では決してないのです。やっぱり死ぬまでお勉強をしましょうね。


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2008年03月11日

「ネズミの嫁入り」

 全日本の女子バレーの柳本監督が言っていた。「全日本の女子バレーで1つのまとまったチームにするのは並大抵では有りません。というのも、1人1人の選手は、それぞれ所属しているチームからの選抜で、それぞれは有る意味、そのチーム毎の女王様達だから、選手自身はプライドが高く、支配的な性質を持っている」私は、この話を聞いて成る程と思った。個人の能力とチームとしての能力は、必ずしも個人の能力にチームの人数を掛けたものと等しくない例は枚挙にいとま無い。
 このようなものの最たる姿を政治の世界に私は見ます。少なくとも政治家(屋)になると決意した原点は、どうしても改めたい世の中に対して、自分自身居ても立っても居られずに、「えい!」という勢いで立候補する訳です。ある意味、誰かから頼まれてというより、自意識過剰という覚悟が有るのは明らかです。少なくとも既にこの原点に支配、或いは影響力というものが、普通の人よりもかなり強いという萌芽が見てとれる。
 そのような人々が、何度も苦しい選挙戦を勝ち抜いて、代議士や首長等になると、かなり確信的な自己や政治信念を形成する。
 特に政治家(屋)が陥り易いのは、選挙において多数票を得た事による。「自分の意見を多くの人々が支持している」と思い込む。しかし、私から言うと、所詮オラが村の多数意見であって、オラが村の常識(日本)は日本全体(世界)の非常識なんて事はいくらでも有る。そもそもこの“意見”というものについて深く考えているのだろうかと考えさせられる事が多々有る。
 まず、その人が持っている意見は、その人の過去の思考の積み重ね、或いは過去の思考の結果でしかないとの認識が無い。もし、違った家庭や環境、学校や友人と過ごしたとして、今と全く同じ意見や価値観を持ち合わせていただろうか。私は断言出来る。絶対に違った意見を持つようになると。つまり、意見とは「その人独自の思考プロセスや環境を通じて生み出された、あくまで想定でしか無い」という事なのです。
 ところが、時流に乗ったり、上手く事が運んでゆくと、その想定たる意見と自分を重ね合わせるようになり、その意見こそ自分自身であると錯覚し始める。意見に自分の姿を重ね合わせた場合、人はそれを無意識の内に守ろうとしてしまう。
 意見に異議を唱えられると、まるで自分自身が攻撃されたかのように感じるのである。このように自分の意見を真実であるかのように錯覚している者は、異なった意見の者に激しい攻撃を行うようになる。政治家(屋)を見ればわかる。
 はっきり言おう。自民が正しいか、民主が正しいのか、そのような事を私達は知りたいのでは、無い。「より良い日本を創る」ただこの1点において政治家 (屋)に託しているに過ぎない。にも関わらず、単なる自民の想定、或いは民主の想定や背景を成すだけに過ぎないものに自我を同一視して、是が非でも正当化しようと口角泡を飛ばしている政治家(屋)の姿に、常識有る国民はそっぽを向いている事に気付いていない。
 顧客(国民)のニーズに無頓着で生き残れるビジネス(政党)等有り得ない事は明白で有る。自民も民主も未来の政権与党たり得ない事は私には明らかだ。
 これからは、意見を持ちつつも、その意見を飛び出せる“禅の心”のような感覚が必要とされている。そして、実はヨーロッパの国々は、既にその事に気付き始めている。
 禅の心を持つ日本は、今正に“灯台元暗し”“青い鳥を求めて”或いは“ネズミの嫁入り”の状態に私は思える。


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2008年03月09日

「ちょっとイイ話…1」

 読売テレビの新番組で「深イイ話」というのがあります。1分間で話される内容に、ゲストが何人感動するのか、というのをお茶の間でも体感するものです。テレビという文明の利器が生まれてからおよそ50年、テレビ番組の内容の変遷を追ってゆけば、視聴者の嗜好というものがとてもよく分かる事でしょう。正にテレビ番組のプロデューサーは、市場の動向、即ち視聴者の嗜好を如何に捉える事が出来るかを問われているのです。今日は、私の読んだ本の中から見つけた「深イイ話」というものを紹介したいと思いました。
「IWATAのて・つ・が・く」なんてものよりよっぽど深くてイイ話です。
 それは、日本のヤカンメーカーの社長がミラノを訪れた時の話です。
「自分達の作るヤカンは、日本ではスーパーで100円前後、高いものではせいぜい3,000円。ところが、イタリアのアレッシー社のものは、日本では 15,000円で売られている。何故同じヤカンなのに10倍もの高値で消費者に受け入れられているのか、自分には分からない。アレッシーのケトルを買ってきてその材質を分析してみた。その結果、熱の伝導率や衝撃性等は、わが社の方が良いのに、どうしてこのような価格差が起こっているのか分からないので、当地に来ました!」という事。この社長は同社及び、類似品のミラノ市内のショールームを見学し、関係業界の人々を訪問して話を聞いたようだが、「結局よく分かりません。」と言って帰ったそうである。
 この話をイタリア人のホームウェアデザイナーにしたところ、以下のような答えが返ってきたという。
 「日本のケトルメーカー(イタリアではヤカンをケトルと言う)の人ならそう言うでしょうね。イタリアのホームウェアの協会が、日本のケトル等、キッチン周りの商品の市場調査をしました。その報告書を読んだ事があります。その話を聞いて、まず思うのは、日本のケトルを作っている人達は、日本の市場に起こっている消費者の嗜好の変化を理解していないという事です。私達にとっては、モノ作りをしている人が、市場の動向を知らないなんて事は信じられない事ですが、今や先進国では、どの家庭でもお湯を沸かすためのケトルを2つや3つ持っていて、そうした機能を果たすためのケトルはもう要らないのです。今、イタリア製のホームウェアを高い価格で購入している先進国市場の人々は、私達の製品をお湯を沸かす用具としてでは無く、ファッショングッズとして購入しているのです。
 ナベ、ヤカン等の調理器具は、料理が終わると棚の中にしまってしまうものですが、ケトルはレンジの上に置いておく事が多い。居間に友達を招待してパーティを開いたり、家族や親類縁者で食事を取ったりする時に、キッチンの方を何気なく見ると、ちょっと個性的なデザインやカラーのケトルが見える。それがキッチン全体あるいは居間としっくり調和している。見ていて美しく、又楽しい。そこにこの家の主の個性がさり気なく表現されている。そのために人々は高いイタリア製のケトルを買うのです」という事であった。~小林元著「イタリア式ブランドビジネスの育て方」より~
 私も経営者の端くれとして今も思うのは、数多くの経験による決断力や判断力と、一方で、経験というものによって作られた既成概念とは無縁の真白な頭で物事を見る、この両方が要求されると思う。ところが、これは一言で言うのは簡単だが、実は殆ど有り得ない。やはり、若い人やその業界のルーキーの頭を使って頂いて、斬新なアイデアを出来るだけ吸収する。その為には、お互いの人間関係がフラットで、仲間としてそのビジネスに取組むという風土が必要となる。
 上司や管理職による権威や支配、或いは今迄そうして来たという既成概念は組織を硬直化させたり、固定化するのには、とても有効な手段だと言える。人間はとても支配とか管理が好きな生き物だから仕方が無い。


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2008年03月05日

三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。

 今、小栗旬とういう若者が「旬」らしい。若者という言葉を使ったのは、私が彼が歌手なのかタレントなのか俳優なのかを知らないからです。でもルックスはやっぱりカッコイイ。その若さとこのカッコ良さ。これはこの年齢でしか有り得ないし、やはりこれを「旬」と言うのだろう。皆さんはこの「旬」という言葉をご存知かと思いますが、改めてちょっとこの「旬」の話しをしたいと思う。

「旬」1.魚・野菜・果物等の最も味の良い時期 2.物事を行う最も良い時期

 …と辞書には書かれています。何事にも一番栄養や力量が充満する時があるという事ですね。ところが、最近は科学というか技術というのか、人工という力によって、本来の時期では無い時にも手に入れる事が出来るようになって、「旬」という季節感がとても薄れました。
 未だにそれを日本人が強く意識しているのが桜の開花でしょう。寒い冬が過ぎ、少し暖かくなった春先に、満身の力を込めて一斉に咲き誇る桜に、日本人は喜び酔いしれる。この時期に咲くからこそ、桜はこれだけ多くの人々を感動させる事が出来るのでしょう。桜は咲くべき時期を何故か知っているのです。
 例えば、1日も早く桜を見たいと温室に入れて人工的に日照を調整する事で、開花させる事も出来るでしょう。そんな風な人工的に開花させた桜をリアルに想像してみて下さい。どんな想いがあなたに去来するのでしょうか?私には珍しいかも知れないけれど、やっぱり肌寒い早春にこそ、桜は大きな感動を運んでくれるのでは無いでしょうか?
 実は私達人間も、元来は天然の生物であるという、極めて原始的な事実が存在しているのです。現代社会では、車やテレビ、携帯電話、エアコン等の分明の利器によって、その事を意識する事は殆ど皆無のように生活してきます。前にも「魅力」というソフトパワーについて書きましたが、この「魅力」と「旬」は、とても密接な関係が有ります。私達も生物である以上、必ず旬があるはずです。又、職業や学習をするという特殊性からも、人間としての総合的な旬というのも有ると思うのです。
 実はこの「旬」について、2500年前に既に孔子が「男子たるもの、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして行く秋の…」というような内容の事を言っています。これは正しく男子たるものの「旬」を表現した言葉に相当するでしょう。
 最も、肉体を使うスポーツマンの旬等は当てはまりませんが、技量、人格、そして何より判断力、決断力が旬を迎えるのは、40代から60代と科学的にも証明されました。実は、経営者や政治家が一番円熟するのはこの辺りの年代なのです。
 ところが、多くの有権者は堕落した老獪な政治家に飽き飽きして、若くて新鮮な政治家に投票しがちです。でも私は敢えて、政治家は40代以上が適している職業だと断言します。
 まぁ、政治家の話は別として今日の話題は、「私の旬はいつなのだろうか?」という事なのです。
 例えば、主役でも出番を間違えて出て来たら、それはどんな悲劇でも一瞬に喜劇になり、白けてしまいます。私の人生劇場の主役としての、私の出番をきちんと意識して、出るべき時迄しっかりと実力を蓄え、出番が来たら颯爽と主役を演じ、観客をうなされる、これが「旬」を意識した人生のシナリオだと思うのです。
 「旬」を考えず、子供の性格や好き嫌いを考慮せずに、ただ世間がそうしてるからとの理由で塾へ通わせ、「勉強しなさい勉強しなさい」というやり方は、人間が天然の生物である原点を忘れた育て方に他ならない、と私は思います。
 自分の「旬」はいつなのだろう。その時私はどんな風な自分になっているのだろう。周りの人々にどんな感動を届ける事が出来るのだろう。想像してみてもいいじゃないですか。しかも「旬」は考えるだけでは無く、感じる事で観えて来る世界。賢いだけでは分からない。素直さも無いと。
 「素直の十段になりなさい」松下幸之助先生のお言葉です。


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2008年03月04日

学習と体得の関係を知ろう

 私はいつも「何の為に」を一番に考えます。
 今、この行為をする事は、自分にとってどのような意味を持つのだろうか、或はどのような結果を生み出すのだろうと考えながら行動すると、とても良い結果に結び付く事は言う迄も有りません。ところが、毎日同じような生活がパターン化すると、ついつい上記の問い掛け無しに過ごせるものだから、初めは意味を持つ行為で在っても、時と共に変化してしまっているのにも関わらず、形骸化した行為だけが以前のままの形で残るという、そのような事が時代の流れが速い昨今、まま見受けられます。
 民間の企業なら経済原理によって淘汰され、倒産する事で新陳代謝してしてゆくので有るが、役所や官庁にはこの経済原理が及ばないため、形骸化したやり方を何の疑問も無く踏襲し続ける事に因って、社会からどんどん乗離してゆく。
 人間が真っ当に生きてゆくには試練が大切なのに、世の中の賢いと言われている人種程、その試練から遠ざかろう遠ざかろうとする傾向が有る。これは社会的にはとっても資源(人的)の無駄使いなのに…と私は考えている。
 さてさて、今日は「学習」と「体得」の関係を説明する事で「何の為に」をちょっと考えてみたいと思う。
 まず、「学習」という言葉についてお話します。「学」という字の語源は「真似ぶ」と云います。これは両親や先生、身近な先輩に教えを請いながら、その人達のように自分もやってみよう、成ってみようと試み、まずはその人達の真似をする、これが学ぶという事の意味です。
 次に「習」という言葉の語源ですが、「習」という字は「羽が白い」と書きますね。羽が白いという事は、ヒナ鳥を指します。ヒナ鳥は初めは飛べません。巣から親鳥の飛ぶ姿をじっと見つめています。
そして自分も飛ぼうと何度も何度も羽ばたきの練習をします。つまり、この「習」は、真似をした行動を何度も何度も、実際に繰り返し練習するという事なのです。
 現代の教育における学習は、上記の「学」「習」という言葉の語源に沿った指導が成されているでしょうか????どうも暗記等知識に偏重し、実際に体を使って繰り返し練習し、得た知識が使えるようになるという事が軽視されているように思えてなりません。
 学習するという事は、それのみで完結するのでは無く、本来は体得レベルに迄持って行って、初めてその意味が完結するのです。そもそも学習レベルと体得レベルでは、その差に大きな開きが有ります。
 初めて自転車に乗ろうと思った時、どうしてこんなものが乗れるんだろうと不思議な位でしたよね(私は未だに一輪車なんて乗れないし、バック転も出来無いです)。ところが、自転車の場合、いずれ体得の域に達すると、両手を離したりケータイで話しながらでも乗れるようになります。 
 体得のコツは、ヒナ鳥が親鳥を見て自分も飛べると信じているように、人が自転車に乗っているのを見て自分もやれば出来ると信じるように、どんなに立派で及びもつかないように思える人を見ても、「自分には無理だ」と自分にレッテルを貼らない事。 
 時間をかけて何度も何度も失敗しても尚、いずれ自分にも出来るという信念を持つ力が何より大切です。


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2008年03月03日

ペンギンはお寒いのがお好きです

 北海道の旭川の動物園が大人気ですね。これは、行動展示という、今迄の動物園には無い見せ方が人気の理由らしい。
 旭川動物園ではペンギンや白熊がイキイキとしています。その理由は旭川の冬は寒いから。寒いからが理由なんですよ。僕なんか寒いのは苦手だから、寒い程元気になるなんて考えられない。これが私の常識。でも彼らの常識は違う。彼らの常識は寒い方が嬉しい。
 でも世界は広い。もっと過酷な環境が好きな生物というか植物がある。エル・ウィッチャーという名の植物。
 アフリカにナミブ砂漠という所があります。そこは何10年に1度だけしか雨が降らない灼熱の大地だなのです。エル・ウィッチャーはその地において、 100年(何と100年、100年ですよ!!)でたったの1cm程しか成長しない。あるいは気候が厳し過ぎて成長出来無いのかも知れない。じゃあ何でそんな所を生息地に選んだんや!という話ですよね。でも誰もが過酷すぎて近付きもしないナミブ砂漠こそが、唯一生き延びられる故郷であるという事も一方の事実です。
 世間の人は、大抵次のように言います。「そんなに無理したら体を壊すよ…」「そんなに働いていても何の得もないよ…」「何事も程々にね…」等々。でもね、同じ私達人間でも、イヌイットはアアマゾンに行ったら熱くて死んじゃうかも知れないし、アマゾンのインディオがイヌイットの住む北極に行ったら死んじゃうかも知れない。
 僕は、公務員になったら死んじゃう。本当に自分的には死んでしまう。ただ、公務員が楽だからという理由だけで、どんな性格の人も安住の地だと考えるのは短絡的過ぎる考えだと思う。自分という人間はどんな環境で生きる事がもっとも輝くかという事は、自分自身でよくよく考えたり感じたりしないといけない。でないと、本当の自分を生かしきれないで死んでしまう。
 僕は安易な人生だと死んでしまうけど、経営者という厳しい気候だと、生き生きと輝くような気がする。人は厳しい環境でだけ、生き生き輝ける属性の人だっているはずだ。
 この自分の属性を知るためには、親の言う事や世の中の常識を一旦棚上げして、自分の心や性向に目を向け、真面目に考えないといけない。
 少し暖かくなって、春めいてきた今日この頃。新しい社会へ出て行く若者のみなさんが、自分の生き場所をうまく見つけられる事を心から願う。それが日本の輝きにつながるのだから。

ペンギンは極寒の南極でしか生きられない
白熊は極寒の北極でしか生きられない
多くの生物にとっては「絶望」の地であるというのに…
あなたはペンギン人間かもしれない?
あなたは白熊人間かもしれない?
誰もが心地よく感じる温帯が、
実はあなたの死を意味するかもしれない
もっと自分を見つめよう


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2008年03月01日

「DNAは危機が大好きかも…」

 私達も生物である以上、進化メカニズムとは無縁でいられません。進化というと大抵はダーウィンの進化論を思い浮かべられるでしょう。彼によると種は環境に晒され続ける事によって、その環境に最も適する体へ時間をかけて変化して行ったと考えました。
 つまり、種は神の創造物であるという考えに一石を投ずる事により、当時の教会から迫害を受けました。
 ところが近年では、進化は遺伝子のDNAの突然変異の積み重ねが進化であるという、突然変異説が主流となってきました。
 つまり、徐々に環境に合わせて順応してゆくのが進化では無く、環境の急激な変化によって、生命の危機に頻ずる場合に、一瞬で遺伝子情報を変化させ、対応して行こうとするのです。

「生物は、生命を脅かす危機をバネに、一気に進化をするという特性を持っている」

 もう少し先の言葉を、実例を用いて検証してきたいと思います。
 地球が約35~40億年前、爆発を繰り返し、大気中は硫黄や窒素化合物で満たされ、爆発時のチリや灰で覆われ、太陽が差し込まないそんな地球でした。そんな地球でも、窒素を栄養分とする原始生命体が生まれました。現在の地球でも、海底深く熱水が噴き出す熱水鉱床の周りでは、まだ、この原始生命体を荒い出す事ができます。窒素を栄養として、多くの原始生命体が生まれましたが、次第に爆発も始まり、大気のチリも消え、太陽光が地上に差すようになると、今度は太陽光と窒素を栄養として酸素を吐き出す新しい生命体のケイ藻類が海で大繁殖しました。
 本来、地球の大気中になかった酸素が増え、原始生命体にとってはそれが猛威で、多くの原始生命体が危機に頻しました。そんな中、私達の先祖は、酸素に対し耐性を持った原始生命体が現れ、耐性を持たない、今日ミトコンドリアと称される生命体が、その耐性を持つ、今日で言う細胞の中へ飛び込む事によって、猛威の酸素から身を守り、全く新しい1個の生命体へ突然に変化しました。
 これが、私達人類の進化のスタートです。
 そしてもう1つ。人類の進化の中での大きな生命の進化が30万年前のアトラス山脈のしゅう曲による、東アフリカのサバンナ化であります。地盤変動が生ずる前は、アフリカ大陸全体が偏西風により大西洋から湿気に富んだ風の恵みを受け、いたる所が密林でした。
 密林では木から木へ移動するだけで必要な植物は十分手に入り、樹上生活のみで一生を終える事が出来ました。しかし、アトラス山脈ができ、山脈より東へは偏西風が届かなくなり、東アフリカは、サバンナ化しました。木から木へは一度地上に降り、歩いて次の木まで行かなければなりませんでした。歩かなければ死ぬ以外にありませんでした。
 生命の危機に頻した先祖のサルは生きるために二足歩行する道を選びました。このように、本来人間も、生命の危機に頻する事だけが種としての進化を遂げる事のできる原因となれるのです。
 今日に生きる私達も決して例外であるはずもありません。例えば、1995年1月17日の阪神大震災。多くの生命が一瞬にして失われた中、生き残った人々に大きな人生の変化が生まれ始めました。例えば、『60歳からのティーショット(NHK出版)』の作者は、生きるという意味を見つめ直し、残りの人生を好きなゴルフに賭けてみようと一念発起。60歳でゴルフのプロテストを受け、見事合格しました。彼は、生命の危機がなければ、自分は決してプロなんかになれなかったと述懐しています。又、第二次世界大戦後の焼け野原から、今日の日本を支える企業の創始者が多く現れたのも、廃という現実と向かい合った中から自ら鍛え、精神を進化させたからに他なりません。
 そこでイワタは考えました。
 向上し進化するためには、自ら生命体の危機に追い込む、それも日々追い込む事です。そうする事によって、加速度的に自分は進化していけるのだという事なのです。
 今、世の中は戦後60年間の高度成長期の何も生命の危機を感じない人類史上、希有な時代を経験しました。その60年間の遅れにより、日本は、欧米はもとよりアジア諸国からも置き去りにされようとしています。
 リストラ、倒産、多額の債券による国際財政の危機。楽しい宴の後、私達の周りは一気に生命の危機で満たされ始めました。
 正に、自らを生命の危機へと追い込める力を持った私達こそが、これからの時代のリーダーシップをとっていくのです。
 これは、精神論では無く、科学より導き出された動かしようの無い事なのです。


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