2008年02月28日

「移り香」という事が言われなくなって久しい

 昔、豊臣秀吉が狩りに出掛けたその帰りに、茶屋に立ち寄った。茶屋の主人と独りの小僧がいた。秀吉一行を見た小僧は注文を聞く迄も無く、奥へ行ってお茶を持ってきた。喉が渇いていた秀吉達は、冷めてはいるがそのお茶を飲んで咽を潤した。
 すると、しばらくして又小僧が熱いお茶を持って現れた。秀吉は、「おい、小僧、先程のお茶は冷めておったが、今度の茶は熱い茶だが、それは一体どういう訳か?」と問うと、小僧曰く、「お侍さんは狩りに行かれ、咽がお渇きのようにお見受けしました。お茶をきちんと煎れるより、まずは渇きを癒して頂こうとお出ししました。そしてその間に湯を沸かしておりましたので…」と答えた。秀吉は「何と感心な小僧!!」と言って、茶屋の主人に向かって、その場でその小僧を小姓にと申し出て、貰い受けた。この小僧こそ、後の石田三成であった。秀吉は身分に捕われず、優秀な小僧を数多く召しかかえ小姓とした。それらが後年秀吉の天下の中枢を任っていったのである。日本にはこの小姓という制度や師匠に弟子入りする徒弟制度、又小さい頃より奉公に出される丁稚等、社会には多くの大人の智恵を授かる賢い方法があった。
 昔から「移り香」という言葉があります。いつも一流のものや一流の事、そして一流の人々と交わっていると、本人は全く意識する事は無くても、自然とその臭いがその人にも移る、という事の表現だ。今風に言うなら「類は友を呼ぶ」のような反対語のような…。
 自ら進んで一流の人物(本当は超一流がお勧めですが、これは殆ど見当たらない)と交わる事によって、自分も一流の人々の類となってゆく。
 他にも良い悪いは別として、今日は民主主義/個性尊重の時代。父親や母親が子供に敬語を使ったり、ペット迄同じような扱いをする事もある時代です。
 私は今が良くない、昔が良かったなんて事を言うつもりはさらさらありません。今はある意味、とてもヒューマニズムに満ちた時代でもあるし、又昔も違った意味でヒューマニズムに溢れていた。どちらかという両極端な選択をしている時代は、まだ未熟さの残る教養だと思う。是々非々として、しっかりと良否を見極める力が必要。
 そんな意味で今日は昔は良かったというお話をしたい。

 今の自分を変えたい。新しい自分を創りたいと多くの人々が思っている。その方法として自分で本を買ったり学んだりしながら努力をする。ただ、この方法では殆どの人が失敗する。何故なら辛い、しんどいから、日々の仕事に埋没してゆく。
 自分で発奮努力して運命を切り拓くのも良いが、一方、他者に寄生するように、他者の力を借りて自分を創るのも昔は前述のように一般的だった。私は若い内は他者の力を借りて自分を育てる方が良いと思う。自分で十分力が付いたと思ってから、独り立ちした方が人格形成はスムーズだと思う。
 隣人愛に溢れた先人の元に身を預け、心を託して働き、ともに進歩発展する事は賢いやり方だと思う。
 この方法のポイントは、自分は身を預けている人の一部だ。その人の一部であるという謙虚な気持ちを持ち続ける事だ。その人のために働くという事は、即ち自分のために働くのと同じであると考える。 人はこのように思って働くと気持ちのブレーキが無くなり、全力が出し切れる。決して小賢しい智恵を出したり、目先の利益に気を取られ迷ってはならない。他者によって自己成長を促進しようと決意いたら、昨日迄の自己はきっぱりと捨てる位の心意気で飛び込む。過去の習慣や感情、癖等を引きずっては上手く行かない。もしそれが出来ないというのなら、仕方が無い。成功の確立は少ないけれども、他者をアテにせず、自分改革の厳しい道を独りで歩むしかない。
 例えば、痩せようと思ったら、食べる量を減らす方が良い。同じだけ食べて、その分運動を多めにする等と理屈を付けるより、きっぱりと決心する方が良い。畑の雑草を引き抜かないで、野菜にだけ肥料を多くやる事を考えると分かりやすい。
 ただ、ダイエット等は簡単だが、今どき自分を捨てて身を預けられうような、そんな人物に出会う事は、もっともっと難しい、自己変革よりも難しい道なのかも知れない。


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2008年02月27日

「私の違和感」

 今、私の会社はおかげ様で4つの銀行とお取り引きして頂いている。勿論、前に書いた銀行がメインであるのは言うまでもない。ただ、私はいつも銀行の支店長や担当者が度々替わる事に大いなる疑問がある。
 数年間おつき合いをして、お互いの気心も知れて、スムーズになり出した頃に転勤になる。「どうして、そんなに銀行は頻繁に担当が替わるんですか?」と尋ねると、大抵の場合「大きなお金を扱う職務上、取引先と戀意になり過ぎると癒着が生まれ兼ねないので、それを防止するためなんです…」という答えが返って来る。
 私はこの理由にとても違和感を感じる。一つ目は、雇い主である銀行が自分の銀行員や部下を信用していないというメッセージに聞こえるから。
 会社はお互いを信じてこそ素晴らしい業績が上がる訳で、ビジネスのシステムで不正を防ごうという考えはそもそも無いのが本業では無いだろうか?又、自分が信頼されていない会社や上司の元で、人は熱心に働けるのだろうか?
 それから二つ目は、不正の防止より取引先との人間関係の絆の方がより重要なのでは無いだろうかという事。不正を無くすための手段は別段移動という事のみでは無いのだから。気心を知った関係で、お互いに言うべき事を言いながら、より良い関係を築いていく事は、とても大切な事だと私は考える。それに長い付き合いをしていると、その会社の小さな変化にすぐ気付けると思う。
 そして三つ目は、業務は新しい担当に引き継ぐ事は出来ても、お互いの歴史や思い出は引き継げない。こんな事を繰り返す事が果たしてお互いに良い事なのだろうか?
 銀行という性格は、半分は公的部分を持っている。従って私達のような企業よりも、遥かに組織の論理が強い。企業では、主役はお客様であって会社では無いと考えて、ビジネスモデルを構築するところがかなり増えて来ましたが、金融機関ではまだまだ主役は銀行だという旧来のビジネスモデルからは脱し切れていない。私達の企業の立場も理解しながら業務を進めて下さるような情のある担当者は、少しずつ主流から外れ、一方昇進してゆく銀行マンは、如何に組織の側に立って業務を遂行してゆくかという、我々経営者の側からは最も遠い存在であるような気がするのは、私の思い過ごしだろうか?


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2008年02月26日

「One of 私の出会い」

 以前このコラムでも書きましたが、私は十分な計画を立てて独立した訳では無かった。ましてや将来経営者になりたいという思いがあった訳でも無い。と言うより、元祖“逆玉のコシ”を狙っていた奴だ。
 とにかく独立をしたけれども仕事がある訳でも無い。そのような私も何かの事業を始めなければならない。会社だけはもう設立していたから。そして友人から事業の話が来た。きっと上手く行くに違いない。お金は無いけれどやってみよう。知り合いの“まち金”とか“ヤミ金”と言われる人に、「あんたやったら信用あるから、1000万までなら3日以内に貸したる!!」と言われ、700万円を、お言葉に甘えて借りる事にした。その後いろいろな経緯はありましたが、とにもかくにも何とか700万円プラス金利200万円を返済した。そこで、「又いつまでも貸したげる、わしより日栄さんの方がだいぶ金利安いよ。1回行ってみたら~」と教えてくれた。「そうなんや。行ってみよ」すぐに私は日栄の窓口へ相談に行った。すると、「当座預金はお持ちですか?」との事。「え!そんなん、まち金のおっちゃんに聞いてへんかった」、銀行で作ってくれるという事で、その足でいつも取り引きしている信金へ当座開設に行くと、いつもの窓口の担当者が、「当座って何に使わはるんですか?」「日栄さんから言われてきたので、当座通帳をお願いします」担当者は怪訝な顔でこちらを見て、後日又来るようにとの事。「何でやろ。通帳作るだけやのに、大層なこっちゃな~」と思って帰路につく。
 それから数日後、窓口へ行くと、私あるいは私の会社にはまだ十分な信用が無いので、当座は開けないとの返事。何となく、普通預金とは大分違うような感じだった。他にあてはなかったが、私の会社の事務員さんに聞くと、電気代と水道代だけを振り込んでいる信金が近くにあるとの事。駄目元で行ってみると、窓口担当者が奥の偉そうな人に相談し始めた。私はその人に案内され別室へ。
 その方は支店長代理という人で、開口一番、「あんたね、もし会社を健全に発展させようと思ったら、そんな経営してたらあかんよ!!」私は、「何でや。金利高うても、それは経費や。それ払っても利益出すのが経営者の力量や思てます!!!」「まぁ、そう言やそうやけど、経費の金利は安いに越した事ないでしょ?」
 なるほど…。そらそうや。この代理の言うのは正しい。この人やったら叱ったり、教えてくれたりしそうや。「よっしゃ。私おたくと取り引き出来るようになるし、これから指導して下さい。私何も知らんから、イチから教えてね!!!」と言ってそこを後にした。私は銀行というところと是非ともお取り引きしたいと思った。
 数日後代理から電話があって行ってみると、何と当座の通帳を作って下さっていた。何の面識も信用もない私に…。私は胸がいっぱいになって、「この通帳の小切手は1枚たりとも切らないから、これから取り引きをお願いします」と頭を下げた。それからほどなくして、支店長として栄転され、私は追い掛けていって、その支店で目出たく口座を開く事となった。
 それからというものスケッチブックに夢を書いては、1ケ月に1回位のペースでその人を訪ねてゆく。最初は面白い奴やなぁという感じで、3時間くらい聞いて下さる。そんな事を半年程くり返す内に、さすがに支店長も仕事の差し支えになっているようで、あんまり聞いて貰えなくなった。そんな中、又その支店長が今度は本店に移動。私は追い掛けて本店に行って取り引きをお願いすると、一度支店で口座を開くと、そこが担当となるそうで、大好きな支店長を追い掛けてあっちこっちと移れないらしい。
 私は見放されたような気持ちになって、その後銀行へふっつりと行かなくなった。私には、あの支店長を超える人に巡り会えるとはとても考えられなかったのだ。


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2008年02月25日

春は上司の学び返しの時期です

 子供を見れば親が判る。何故なら子供は、親や家族に応じた育ち方をするものだから。私達はオギャーと生まれて母親に抱かれる迄のほんの数分、ほんの数分の間だけは、誰の影響も受けない無垢な自分(本然の自生)だった。違う親や家族に囲まれて育っていたら今の自分は存在しただろうか?
 同じように、部下を見れば上司が判り、社員を見れば社長が判る。悲しいかなこれは真実である。
 人が勝手に1人で育つ事はまず無い。親が子を、上司が部下を、社長が社員を育てたように育っている。いや、そんなはずは無い。うちの子は反抗ばかりしている。社員や幹部は社長の思いを少しも理解していないと嘆く親や社長はたくさんいる。それでも敢えて言おう。やっぱりそうしたのは、あなただと。
 意味も無く反発する事は無い。あなたそのものが存在がするから、反発出来るという事に気付いていない。
 相手がそうしているのは、自分がそうして来たからだという事を素直に受け入れよう。明日より良い人間関係を築きたいと思うならば。
 それならば、まず、自分が変わろう。他人に変わって欲しいと願うなら、願う前に自分を変える努力をしよう。
 難しい理屈なんて要らない。私達は“理動”という言葉を持たない。そう、人は理屈では動かない。人は“感動”しなければ、動く事も変わる事も無い。
 まず、人を育てたければ、自分が育つ姿を見せる事である。何も恥ずかしい事じゃない。親は子供によって育てられる方が遥かに大きい。そうして親は親、子供は子供として育ってゆく。
 上司と部下のより良い関係を築くのは、社員が一番無垢な時期、つまり新入社員が入社する春が最適なのです。
 今迄のあなたを知らない社員となら、きっと今より良い人間関係が築けると思う。


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2008年02月22日

キング・オブ・パワー

 日本の“魅力”のコラムで投げかけたままになっていた問いについて、その答えを書いてみようと思います。
 まず、話はハーブから始まります。モーリス・メッセゲが選ぶオンリーワン・ハ-ブは…、はい、それは皆さんの予想とは違って-、結論から言いますと…、ハーブの中で最も広い効能を持つという、日本でもお馴染みの…、ハーブというよりもずっとアジア的な…、ジャジャーン、それは~、“に・ん・に・く”。はい、“に・ん・に・く”。所謂イングリッシュ的に言うと“ガーリック”です。世界中で料理に多く使われている“にんにく”。それは人類の歴史の中で見い出した智恵というヤツなんでしょうね。
 では、人間的にとっても大事な「キング・オブ・パワー」と言えば何でしょうか?これについては各々の皆様のご見解がおありでしょうから、ここからは私の考えるキング・オブ・パワーという事で読み進めて下さいね。
 実はこそのコラムの題名に既に解答をしていたのです。
 題名、日本の“魅力”。そう魅力という力なのです。魅力があれば有名にもなれるし、指導者にもなれるし、選挙に立候補して政治家にもなれる。皆さん難しく考えて生き過ぎているのでは無いでしょうか。でも一般的には魅力を力とは考えない人が殆どですね。魅力のある人を目指そう。それで必要十分と私は考えています。でも、魅力を身に付けよう!なんて唐突に言われても何が何やら見当がつかないでしょ。私も最初はそうだったのです。でも天性のものなんて安易な解決をしたくない私は、それから魅力を科学し始めたのです。もちろん、私の言う科学というのは“人理学”という私が唱える新たな分野の学問ですが。これは、京都というものを理解するのにも役立つ手法だと思います。
 それは、漠然とした概念を各要素に因数分解して、その相関図を俯瞰(ふかん)するという事です。
 まず、人に限らず、生命というものは、そもそもDNAというものを持っている。それは種としてのものでもあり、個としてのものでもあります。
 このDNAというものが“自我”というものと言えます。そもそも自我というものがなければ存在自体の意義が疑われます。 
 次にそれらの自我を生きている間に主張するだけで無く、生殖活動、所謂“性”というものでもって、その自我というものを次世代に伝えている。本来生命体というものは、この“自我”というものと“性”というものを兼ね備える事によって足りるのですが、人類だけは、やっかいな事にと言おうか、幸いにしてと言おうか、“欲”というものまで持ってしまった。学習欲だとか、自己実現欲等という本当にやっかないな欲を持ってしまった。
 私達は、自我と性と欲の三者を持った地球上で唯一の存在として、今を生きているというこの自覚。
 生物は自我と性だけで、それぞれとても単純に機能していた。ところが、人間は欲というものを併せ持つようになったばかりに、とても複雑さは言うまでもないのですが、より一層困った事に、人間の雌、あっと失礼、女性というお方は、発情期というものを失う事に成功されました。おかげで、自我の伝承という為にあった性というものが、欲と結びついて、とても複雑化してしまいました。まさに、現代はこの複雑化した性欲の反乱と言わんばかりの様相です。また、自我というものが欲と結びついて権力や金銭欲、名誉欲等と、こちらも複雑怪奇な様相を呈する事となりました。
 しかし、これらの自我・性・欲の3つが人間を生かしているのも又、一方の事実です。
 人間の器量とか、魅力と呼ばれるその人の“味わい”というものは、素晴らしいフランス料理のように、その3者が絶妙なバランスで調理してある事が、魅力そのものなのです。
 この自我というものを個性と言い換え、性を色気と言い換え、欲を夢と言い換えてもう一度魅力を見直してみよう。
 私がこの因数分解したものをその人なりに再構築すれば、それが本当に人々から受け入れられる魅力になるのだろうか?確かにこの要素を組み立てる事で、それぞれの人の個性は出来上がる。それでも十分と考える事も良いでしょう。しかし、いつの世もその登場を人々に願われる人物、あるいは大物、合わせて“大人物”と呼ばれる人の魅力にはなり得ないと断言する。
 その人の魅力の全ての要素に、必ず内包されていなければならないDNAがあるのです。それが“愛”というDNAなのです。少し誤解があるといけませんので、この“愛”というDNAも“隣人愛”あるいは“人類愛”という“愛”でなければなりません。このDNAを持つ事で、その人の人格というものは、何とも言えないその人なりの魅力への昇華してゆき、いずれあの人は“人物”あるいは“大人物”と呼ばれるようになってゆくと言えるのです。
※「強運指南」藤木相元一部参照
 あらゆる“力”の中で“魅力”こそが最高の力である。“魅力”という“力”をもってしか“人気”という“気”を生み出せない。“気”を生み出せない限りは、全ての事象を生み出す“良好な場”を生み出す事は出来無い。

 万物の霊長と言われる人間だけに欲が存在する。自我と性と欲の三者を持った地球上で唯一の存在と言える。魅力とはこの三者の独自性と、その根元に存在する愛の種類により良くも悪くもなる。


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2008年02月20日

男には固くなければならない箇所が2箇所ある

 「男はなあ、固く無かったらあかん所が2つ有るんやで!!」なんて事を、子供に教える大人が少なくなったというか、もう、居なくなったようですね。テレビという文明の利器からは、高倉健さんが去って久しい。松田優作も逝った。時代は変わった。スマップの番組、シンスケの番組、さんま、タモリ、その他諸々、とにかくうるさいなんていうより、けたたましい。
 昨日「私の家って、テレビ無いんです。」という女性に出逢った。あなたは偉い。大正解。だんだん賢いと言われる人々は、ブラウン管から遠離り始めている。関西の番組ではそのものズバリ。「男がしゃべりで何で悪いねん」というものまである始末。まぁ、それについては自分の意見をしっかりと主張出来るという事は否定しません。それを否定するならば、ブログに形を変えた私のこのコラム自体の存在にも関わる話になりますから…。
 毎回のコラムで私が言いたかった事は、人の秘密を軽々に他言する事への警鐘と、その自覚のための覚え方というものです。つまり、男が固くなければならないひとつは、「口が固い」という事なのです。
 その人が口が固いと相手に思われると、これはとても大きな信用に繋がります。ところが、今の大人がこの大切さを殆ど子供達に教えていません。だから平気で自分の彼女との秘め事を暴露するぞ!!なんて脅かす輩が横行したり、「あのね、実はここだけの話なんだけどね…」という「ここだけの話」があちこちで発生したります。
 「男は口が固くなければいけない」そして子供達に「男には固くなければならない箇所が2つある。」と教えていなければならない。
 ところが!ところが!ちょっと待てよ。現代の大人には、確かに固い所が2箇所ある。1つは脳みそ。いわゆる頭が固い。社会人はそれぞれに専門的な部署で働くようになると、それに順応してある一部の脳を活発化させ、その他には硬化してゆくという一面がある。そしてもう一方、大人になればなる程、学習という事を通じて常識という硬化剤を脳に注入し、徐々に脳を硬化させてゆく。つまり、社会人になるという事は、脳の一部を麻痺させるという事に等しい。これが1 箇所目。
 それからもう一箇所は、肩や腰。これは固い人が多いですよ。コンピューターによる目の疲れや、人間関係のストレス、運動不足に夜更かし。そりゃ肩も凝るわあ。
 「男には固くなければならない箇所が2つある。けれども、固くなってはいけない箇所が2つある」と言わなければいけない感じ。でもやっぱり、現代の大人は、固い場所違いの解答者となってしまった。
 信用を失えば大きく失う。
 口は災いの元。
 くれぐれも口だけはしっかり嗅ぎをかけて、言って良い事と悪い事がきちんと分別の出来る大人になりましょう。


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2008年02月19日

京都って?

 最近、“京都”という事について考える機会が実に多くなりました。先日東京の友人に、「京都ってブランドだよね。でも本当のブランドとしての京都は伝えられてるのだろうか?」と話していたら、じゃあ「京都ブランドって何?」って聞かされて、彼のブランド論を披露してもらう機会に恵まれた。なるほどなるほど、と考えさせられて、自分の明確と思い込んでいたブランドなるものが、曖昧化してしまった。もう一度、京都についてちゃんんと考えなきゃって思った次第です。
 そんな中、先日のコラムにも書きましたが、イギリスの歴史家トインビーが「日本は中国分明の一亜種としてとらえるのではなく、日本独自で一文明と考えるのが、その実体を正しくとらえる。」という説がヒントになりました。考え方、価値観、物の見方の転換をする事で、よりその疑問に対する答えが見えてくるという視点です。
 今、京都でブームになっているのは「町家ブーム」。これは京都の町屋を利用した数多くのショップの総称がその主たる部分です。あと一部には若者が町家生活に憧れているというものです。私は、この町家ブームという事について、街並や、屋敷が保存されてゆく一助に「町屋ブーム」が位置する事においては、大賛成なのですが、その町家という入れ物だけを京都に置いて、商売をするという、この商行為については、はなはだ疑問に思ってきた。ところが、雑誌やテレビというマスコミは、町家、あるいは京都人気という位置に立脚して、報道・宣伝をしているので、その入れ物の中で営まれている精神や文化という事にあける京都ブランド性にはあまり目がいっていないように感じます。
 分かりやすく言えば。東京に全ての資材を京都から持ってゆき、京都の町家を建てたら、その中で営業するものは何であれ、京都と言えるのか?という事です。
 このように各と分かりやすいでしょ。ちょっとおかしい気がしませんか?私は次のような式を立ててみました↓
 京都=ブランド
 ↑この等式は京都という冠名や、京都という場所に存在する事で京都ブランドとなる考えで、似非(えせ)が生まれ易くなる。京料理、京呉服、京タコ、京吉相墓、京飴などなど、品物の前に冠といsて“京”というブランドを付けているものの考え方と言えるでしょう。
 一方私はブランド=京都という等式で全ての事象にフィルターをかけて検証する事を思い付きました。
 この考え方だと、まず、京都があるのではなく、その建物や商品や、サービスが、私の考える京都というものに相ふさわしいものかどうかという、品定めが先にあるのです。その事によって常に京都にふさわしいという事に主眼が置かれ、似非が生まれにくくなる。つまり、本物指向よいう事が言えるのです。
 私はブランド=京都をDNAと考え、細胞には必ずDNAが存在するという理論から、その細胞が分裂して増殖したとしても、必ずどの増殖細胞にもDNAが内在するというアプローチが正しいと考えます。
 最初に、一番最初にそのビジネスが“何か”にとりかかる時点に、ブランド=京都というDNAがなければ、どれだけ大きくなったとしても、そこにはDNAが存在する事はない。これは生命における理論なのです。
 私はこれから、この京都というものの本質について追求をしてゆこうと思っています。


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2008年02月18日

マルハナバチという蜂のお話

 春になるといち早く表れるマルハナバチと言う蜂をご存知でしょうか?
 空を飛ぶ生き物は、当然のように総じてスリムな体型をしています。そりゃそうですよね。空を飛ぶのってとても大変な事で、特に体が小さく羽が大きい方が飛ぶのには有利に決まっています。ところがどこの世界にも稀代(けったい)な奴がいるもので、このマルハナバチも名前が示す通り、丸くてポッチャリしているのです。ツツジの花等によく飛来するクマバチという真黒な丸々とした蜂なんかも近い種類です。
 このマルハナバチという奴は、翼が弱くて体が重く、航空力学の専門家によると、到底飛ぶ事は出来無いという結論になるのだそうです。そう、現実に空を飛んでいるマルハナバチを目の前にして、人間の航空力学の権威が出した答えが、「飛んでいるマルハナバチがおかしい」という結論になるというのです。
 それじゃあ話にならないというので、学者が出した結論というのは、「マルハナバチは自分が飛べないという事を知らないから飛べるのだ…」なんだとか。
 本当ですかねえ?私はこの話が本当かとうかという事よりも、私はこの話が好きだ!!
 今の私達日本人は、教育水準が高く、情報も多く、知識も豊富で、1人1人はとても「賢い」人ばかりです。しかし、賢いという事だけで、人生を力強く生きてゆけるのでしょうか?スーパーの店先には鶏舎で集団飼育されたブロイラーと呼ばれる柔らかい「かしわ」がほとんどです。
 田舎地鶏なんて探すのも大変。この地鶏の皮からは少し黄色い油がたっぷりと出てきます。肉は赤黒く、固い。野性に近い鶏です。人間も元来は野性の中で生き、狩猟・採集をして生きていました。いわゆる野性の時代です。それから文明がどんどん進んで、今や先進国は飼育人間の国となりました。運動はからっきし駄目な頭でっかちの飼育人間が世の中で幅を利かせています。
 本来の当たり前の原点に立ち返るなら、マルハナバチの「飛んでいる」という事実が全てに勝るのではないでしょうか?
 昭和最終の棟梁と呼ばれた明治の気骨西岡常一にこんなエピソードが残っています。
 世界最古の木造建築法隆寺の五重の塔の再建の時、文化庁の学者先生全員を向うに回して、棟梁の西岡常一は次のように言ったそうです。
 「建築学が出来る前から五重の塔はここに在った。あんた達は五重の塔を分析して学者面しているだけや。所詮、大工の作ったものを後から理論付けしてるだけやないか。建物を建てるのは、学者やのうて、昔から大工と決まっとる!!」と言って自分の説を一切曲げなかったそうです。
 そして、西岡の言う事が正しかったのが歴史の事実です。講釈なんかより、ちゃんと結果の出せる男はカッコイイね。
 言い訳や弁説は立派だけれど、実行力が無く、結果を出せない奴、多いですよね。これからは時代の反動として、少々荒っぽく粗野であっても、必ずやり遂げる野性的な奴が求められてくるでしょうね。
 自らを強く強く信じ、自分の目標に向かって忍耐強く頑張る人は、いつかその世界でヒーローになれる。マルハナバチも西岡棟梁も、私達にそう語りかけているように思えて仕方ない昨今です。


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2008年02月16日

日本の魅力

 今世界中で、日本がブームだという事です。寿司、鉄板焼、天津甘栗、歌舞伎、化粧品、アニメ、マンガ、空手…挙げると有り過ぎて手間なので、止めておきますね。あ、そうそう。世界であれだけ肉食の国があるのに、しゃぶしゃぶがあるのは日本だけなんです。「オーワンダフル!」。
 日本人はとても自分を虐めるのが好きな人達です。学力が落ちた。世界で18位。世界って何カ国あるんでしたっけ?家族のため、嫌な仕事も我慢しているお父さん。ちょっと聞いてみたいのですが、家族のみんなが一度でも自分を犠牲にして迄、家族のためにってお父さんにお願いした事ありましたか?単に自虐的な生き方だけなんじゃないでしょうか。
 日本という国で言えば、まるで自虐のオンパレード。やれ北欧ではどうだとか、やれ欧米ではとか、日本の戦争責任に至っては、全く自虐一色。
 英国人は北米インディオを推定5000万人、鉄砲で殺してアメリカを建国したと言われているし、スペインに至っては、一説では中南米インディオ1億人を、斧や弓などで原始的な武器で相手の顔を見ての殺戮をして、略奪した“金”で繁栄を謳歌したんですよ。よっぽど北米と南米にホロコースト記念館を建てるべきですよ。
 中国だってそうですよ。最初に戦争をしかけたのは元ですよ。中華思想とか何だか知らないけど、日本が従わないなら武力でなんて、馬しか乗った事ない連中が慣れない船に迄乗って、日本を属国にしようとやって来たのですよ。よっぽど、そっちの方が言いがかりだって言うの。そんな事は昔の事だから。じゃあ東大亜戦争だって昔だい。アメリカだってそうですよ。鎖国なんて、とっても平和的な一国の平和を、わざわざ、それも大西洋経由で日本までやって来て、大砲をぶっ放すぞとか何とか脅して、開国させておいて、ちょっと日本が優秀で西洋に追い付いていて、清やロシアを破ったら、一斉にジャパンバッシング。だったら静かにしていた日を、わざわざ力ずくで開国させんなよって言うもんだ。日本人は元来平和を好む優しい民族なんだから。
 イギリスの歴史家トインビーは、「日本だけで1つの文明圏を成している」。アメリカの歴史学者ハンテントンは「西欧キリスト教文明」「イスラム文明」「ロシア正教文明」「ヒンズー文明」「中華文明」と世界を七大文明に分類している。彼は、日本を考える時、国単位で捉えられる日本独自文明説に立っている。やっぱり西洋の連中の中にも、ちょっとはまともな人間もいるんだなって思いますね。
 西洋主義の現実世界、世界は平和で豊かになりましたか?そんな事見りや分かるでしょ。何でそんな西洋が立派だなんて今だに舶来信仰してるんですか?
 それから今の日本ブーム。どれをとっても人々に笑顔が溢れるものばかりでしょ。日本のトヨタ車だってそうですよ。世界の人々がハッピーになれる多くのものが、日本にはあって、それを感知した外国人客が日本に来たり、日本ブームの火付け役をしているのです。
 常々私は日本のリーダーシップの在り方は、「自国が独自の文明で幸せに繁栄をしている。それを外国人がわざわざ教えを乞いに来る」これが日本のリーダーシップの在り方なんだと説いている。欧米のように自らの教義(キリスト教)や正義を世界に押し付けるようなリーダーシップがリーダーシップなんかじゃないのです。
 「人間界における最強のパワーを1つあげなさい」と言う質問を私は塾生によくします。いろんな答えがありますよ。あなたも考えてください。その1つのパワーこそがキングだというもの。
 フランスの漢方医のような、ハーブの大家モーリス・メッセゲにある記者がインタビューしました。
「メッセゲさん。もしあなたが、たったひとつのハーブしか選べないとしたら、何をお選びになりますか?」
 私の質問と同じ趣旨ですね。さあ、メッセゲは何と答えたのでしょうか?
 ……また来週。


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2008年02月13日

「あなたは神様に指導されている」かもしれん

 ブログをちょっとお休みして、幾日かが過ぎました。お待たせしました。
 私の書斎から見える庭には、今粉雪が降り注ぎ、とても美しい姿を見せています。先日の雪模様の庭も美しかった。英徳館の庭もとても美しい景色でした。特に雪の積もった燈籠は格別です。
 日々の資金のやりくりに追われる我々経営者という人間は、ふっとこの様な景色を見ながら、ぼーっとしていると「最低限度の文化的な生活」に憧れながらも、事業欲なるものに押されて実社会でもがく自分との表裏に思いを巡らせる事となる。悩んだり苦しんだりすると、私はいつも“20歳の原点”と言うべき、余命15年の宣言に意識が戻る。35歳で死んでいたら、今は無い。今が無いならば、子供の成長を見る事も、事業家になる事も、そして多くのその後の思い出を得る事も何も無かったはずなのである。その事を思えば、今の悩みや苦しみなんて、何の事は無い小さな事なのだ。
 本を読んでいてもその様に書いてある。人に何かを話す時も、「私は体験を通じてそう思う」等と悟った様な事を言っている。勿論、私は自分が言っている事に嘘は無いと思っているし、事実そう生きている。ところが「理屈さん」とは違う「感情さん」という、もう1人の私は、やっぱり何処か気が晴れない。
 「経営者は孤独だ」と、世間ではよく言われているが、私はたくさんの、心から信頼できる社員に囲まれ、家族や多くの友に囲まれ、決して孤独だとは思わない。私なんかよりも、もっともっと厳しい仕事を進んでやり遂げようとしている社員の姿、否、社員という言葉を使う事もはばかられる素晴らしい同志に触れるにつけ、いつもありがとうと手を合わせずにはいられない。全く孤独とは対極に居る私なのです。これも事実であり、一点の曇りもない気持ちなのですが、もう 1人の「感情さん」は、そう言ってもなかなかピーカン晴れには程遠い。
 3000年の歴史を持つ、ユダヤのタルムードにはこんな言葉があった。「神の前では泣け、人の前では笑え」と。成る程と思う。人間の弱さを知り尽くしている。私達は何処かで「感情さん」としての私を慰めてくれる場所が要るんだという事なんだ。
 今こうして1人静かにコラムを書いていると少し気持ちが落ち着いてきました。
 私はことわざや言霊をもった一言や一文というものが、とても好きです。気に入ったり心を動かされる言葉に出逢うと、すぐに葉書大の紙に筆ペンで書き写します。書き写して引き出しにしまっていましたが、あまりに勿体無いので、最近はトイレに貼る様にしています。英徳館のトイレは、内装と称して、壁に1枚1 枚上記の名言を貼付けています。後3~4ケ月もすれば完成するのでは無いでしょうか。ロ-マは1日にして成らず。何年もかけて、ここに集う塾生が天才へと羽ばたく環境を整備してゆこうと思う。
 人の人生を変える様な言葉という事で、今日は私が全く別人に変わるきっかけになった、言葉を紹介したいと思います。このブログでも何度か触れましたが、 19~20歳の時に急に発病した病気が、実はこの様な若さで慢性化しており、医学的にも大変珍しい患者で、大学の医者の貴重な症例研究の材料にもなる程でした。余命を告げられ、その後の長い闘病生活の中で、私が導きだした答とは、次の様なものでした。私の家族は5人家族。他に親類一同。私の家は本家で、私以外家族・親類全て病気を患っている者は誰1人おりませんでした。いろいろ考えた末、私が一番精神的に強い子だから、本来一族みんなに降りかかる病気という“気”を全部集めて私1人に背負わされたのだと。自分1人という視点で見ると不幸かもしれないけれども、一族みんなで見れば、有難い事だと思う事にしようと自分なりの結論を出しました。
 今世でこの責任をしっかり果たす事で、素晴らしい来世を迎えられると信じています。僅か20歳過ぎの何も知らない若者なりの答えでした。
 その後10数年の時が過ぎ、余命2~3年という時にある知人のお母様と会う機会がありました。たまたまその時に仕事が入って、少し友人がその場を離れる時に、「うちのお母ちゃん、霊能力があるねん。良かったら何でも見て貰えばどう?」と言って立ち去りました。私も初対面で話す事も無く、それならばと、私の病気とその見解について、その思いを尋ねてみる事にしました。「私は何かの因果で今世ではこの様な責を負う命となっているようですが、そういうものなのでしょうか?」と問いました。その時即座に、正に即座に、そのお母様は、「違うよ。それは神様に罰せられているのでは無くて、神に指導されているのよ」とお答えになりました。「正直、え~何の事?何言うてはんの~?」という感じ。詳細を聞くと次の様な事でした。
 今世で世の為、人の為に生きる天命を持った人間には、他の人には与えられない特別な厳しい試練が与えられるらしい。私はその指導されている1人なんだとか。にわかには信じられないお話でした。
 その後、何度もその言葉を考えました。結果的には心から信じるには至りませんでしたが、ただ、同じ出来事なのにこんなに違う見方になるのか、物事を見る時は、その後私は断定的に見る事をひどく嫌うようになったのは事実です。
 「かもしれん教」なる宗教名を付けて、勝手に教祖になりました。信者はまだ1人もいません。布教も正直していません。この宗教で唱える事は、「かもしれん、かもしれん…」と唱えるのです。世の真理を説いた有難い、それはそれは有難いお言葉「かもしれん」。人生は思い通りにいかない「かもしれん」けれど、ひょっとすると上手くいく「かもしれん」どっちにしても、生きていなけりゃ始まらない。かもしれん教とは、人生、生きる勇気の大切さをとてもシンプルに説いているのです。生きてみなけりゃ分からない。やってみなけりゃ分からない。とにかく人生「かもしれん」…。
 先日、湯島天神へ林先生のお勉強会に行く途中に、くじ売り場を通りかかりました。行き過ぎた私は何故か引き止められる気持ちに囚われ、引き戻しました。運試しだぁ。くじを買わなきゃ始まらない。ひょっとしたら当たるかもしれん。1枚200円のスクラッチを5枚買ってこすってみました。人生初体験。うっひょ~。結果はご想像にお任せします。


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2008年02月06日

「学ぶ」という事。「考える」という事。

-「知行合一結果」岩田哲-

 「学ぶ」とは語源は「真似ぶ」(まねぶ)とされています。これは先達が見い出し確立したものを頂き、真似をする事が出来るようになるという意味です。主に基本となるべきものであり、最初に覚え守るべき事と考えていいと思うのです。私は「学ぶ」という事を「靴を履く」事と定義しました。
 この広い地球上には、足の裏に刺さるとげが無数にあります。それらのとげを全て取り除く事などできません。また、地球上にある全ての棘(とげ)から足を守るために、この大地の全てを覆ってしまう事も不可能です。しかし、自分の足を守る為にしっかりした靴を履いたなら、例えどこを歩こうとも、もう棘が足に刺さる事はなく、この地上にある棘を全て取り除いたのと同じ事になるのです。
 これと同じように、この世界には、私達の心をかき乱す様々な問題や困難が無数にあります。そして、私達に賞を与える生き物もたくさんいます。これらの外面的な問題をすべて取り除く事など到底できる事ではありません。
 この身に降りかかって来る様々な困難から身を守る為のものが、私は「学ぶ」であると考えています。
 「学ぶ」事が進むと、少しずつ少しずつ、確実に「自己成長」してゆきます。この自己成長は、靴に置き換えるならば、砂漠でも米の中も、岩場も、困難な地球上の箇所を踏破できる優れた靴を履いている事に等しいのです。まずは能力の高い自分を作る為に必要な事。それが「学ぶ」と定義する事が出来ます。
 次に、どうして困難な箇所も踏破出来る靴が必要となるのでしょうか?それは、誰もが行っていないような極地というべき自分の目的地に到達するために必要なのです。何の一歩も踏み出さず、じっとその場で足踏みをしている人にとっては、そのような高性能な靴は全く必要ではありません。人は新しい未来を切り開くという“夢”の為に、そのような学びが必要なのです。
 私はよく「夢を持つな」と教えます。始めはみんな「え!」という顔をします。そこで、「夢を持つな。まず、夢を持つ前に夢を持つ資格を取れ。」と言います。このような事を言うと、結論反論めいたものも頂きますが、自動車の運転のライセンスを持たずに車を買う人を見たら変だと感じるでしょう。子供がスーパーカーに憧れ、その親が免許の無い子供に買い与えたら笑うでしょう。
 ところが、こと夢の話になると、何故か大人は無責任に「夢を持て」とか「夢は大事やぞ」と言います。
 これは勉強もそれ程していない者に素晴らしい企画を出せ!!と、迫っているようなもんだと思うんですよね。
 まず大人は夢の大切さを語る前に、その資格を取る事の大切さを子供に教えるという事を自覚すべきだと私は考えています。 
 少し横道にそれながらも、私が次に定義する「考える」という事見えてきたと思います。
 「考える」という事は、「学び」という「靴」を履いて、自分が決めた“目的地”つまり“夢”に行き着くための方法を見い出す事だと言えます。
 ここでコロンブスの卵のような発想の転換が起こるのです。最も効率的に夢を実現させる方法は、夢を咲きにしっかりと決めて、それに必要な、必要最小限の学びをする。これが重要。人生は長くない。この短い人生で何かを成し遂げようとするならば、このように考えなければと深く反省している私なのです。
「学び」…自己成長する為
「考える」…未来を切り開く為
 そして全ては、行動し、結果を出す為にある。


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2008年02月05日

「初一念」

-「まずはそう思わなしようおまへんな。」松下幸之助-

 「初一念」は確か松下幸之助先生の言葉だったと思う。「初一念」とは、物事に取りかかる以前に、自分は「何のために」そうしようとしたのか、という事。この「何のために」という事を、京セラの稲森和夫は「動機善なりや、私心無かりしかや」として、その「何のために」を自分なりに反芻して、世の為、人の為私利私欲ではないという事を何度も自問した上で、その事業に着手してきたという。
 私はこの「初一念」という言葉を聞くと、最近研究がとても進んだ、所謂DNA(遺伝子)を思い出します。全ての生命はこのDNAの設計した通りになってゆく。サルにはサルの、人には人の。これは、最初の細胞に埋め込まれたDNAを、細胞分裂のたびに次々と複製してゆく過程の末に、1個の生命体が生まれる仕組みになっています。
 「初一念」とは、“この何か物事に挑戦し、成し遂げようと考えた一番最初に、宿していなければないらない、その人の想い”と定義できるでしょう。原因と結果の法則というものがあるそうですが、最初の原因に、結果が委ねられるという意味において、この初一念というべきものは大変重要なものだと言えます。
 DNAの仕組みは、通常私達が意識しなくても、日々恒常的に新陳代謝し、細胞がDNAどおりに入れ替わってゆきます。そのようなDNAにおいても、時にそのDNAに異変が起こり、本来とは違った一念を持ったDNAが増殖し始める事があります。これを癌細胞と呼んでいます。この癌細胞が一定異常に増殖すると、その生命は奪われてしまうのです。
 「初一念」も、まず、その初めにおいて、その一念がどのような動機によるものなのかは十二分に検討されなければなりませんが、人間の「初一念」の強さというものは、DNAのように恒常的に同じDNAを内包して増殖するものでは無く、ともすると、時が経過したり、増殖が多く繰り返される過程で、癌よりも遥かにその歪みが生じやすい性質のものなのです。イスラム教のラマダンでは有りませんが、1年に何度か、自分の今立っている位置から初一念を振り返って、その内容に変異が起こっていないかどうかを、本当にしっかりとやり続けなければ、本当に知らぬ間に異変が増殖している事となります。
 これは何も自分にだけは当てはまる事では無く、組織においては特にあらゆる社員、あらゆる部署において異変は次々と起こるものなのです。
 そういう意味において、企業においては理念(初一念)をいつも社員全員が自覚し、一挙手一投足全てが理念に則ったものになるよう企業風土を育ててゆく事が、その企業の成否を決めると私は考えています。
 人DNAが人間になる肉体的な種とするならば、「初一念」はその人が、人物となる精神的な種と言えるでしょう。そして、「理念」はその会社が社会における活躍すべき種となるものです。
 「最初に無いものは最後まで無い」林英臣先生のお言葉です。


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2008年02月03日

心地のいい間尺の町

 私は東京という街が好きだ。大学生の頃、ドリーム号という夜行バスに乗って、東京へ洋服を買いによく出掛けた。原宿ではチョッパー、渋谷ではクリームソーダ、ボートハウス、青山ではクルーズ、なんて時代だ。
新宿の伊勢丹等にだって行ったものです。ちょっと足を伸ばして江ノ電で江ノ島や鎌倉、横浜は外人基地や中華街。当時氷川丸なんて船の食堂もあった。
 東京が好きな理由。それはおしゃれでカッコイイから。それに街も行き交う人々も礼儀正しく、奇麗だと思った。
 今でも東京へは仕事を含めてちょくちょく行く。東京から帰ると、僕は結構疲れる。最近その原因が街の寸法だと気付いた。東京も京都も住んでいる人の身の丈は、大体男で170~180cm。昔で言えば5尺~6尺ってところだ。つまり人間の身の丈から割り出した寸法で都市計画をすると、それぞれの間尺が心地良い大きさになるのじゃないかと思う。
 古くは平安京、そしてパリ。どちらも世界中の人々から愛されている古都ですが、どちらの街にも共通しているのは都市計画の寸法が、人間の身の丈や動ける距離とうまく重ねられているという事。
 これがあると、人と街に一体感が生まれ、人と人の触れあいが自然に心地良いものになる。ところが、初めに都市ありきで、都市計画をしてしまうと、街と自分の間に何となく疎外感が生まれてしまう。その心の中に吹く感覚が、意識せずに人を寂しくさせてしまうような気がする。
 奇麗なだけじゃない。人間というか、特に日本人は非対称や侘(わび)、寂(さび)という独特の美意識の持ち主。そこには内面の美とか、巧まざる美、あるいは自然美という美意識があり、これらを美しいと感ずる事が出来る段階になるには、相当文化度を高める必要があるらしい。古来日本人は、文化度を高めるのに非常に適した環境・言語・価値観・性質というものを具備していたと考えられる。そして今日、世界中の人々が文化度を上げてくる事によって、日本の文化を解する人口が増え、世界中に日本ブームが起こっている。
 日本文化の中心として脈々と受け継がれてきたもの、そしてそれらのゆりかごとなった人間の間尺に合った、平安の都(冬里制)。ここから生まれてくる本物に対し、人々は尊敬と憧れを持って会いに来るのだと私は思う。


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2008年02月02日

迎え撃つ心

 大リーガー、イチロ-の新年の特別番組でイチローが語っていた事から、改めて納得する事がありました。イチローは、メジャーデビューから7年間、毎年年間200安打以上を超える辺りからスランプになるそうだ。本人も番組で言っていましたが、自分はプレッシャーに弱い人間だったから、必ずスランプになり、脈が速くなるし、吐き気をもよおすし、暗い気分を家に迄持ち帰ってしまう。
 私達からすると、あの天才的なイチローがそんな自分と戦っているとは、なかなか想像しにくいですね。ところが、2007年のイチローには大きな変化が生まれたみたい。彼は今年は前もって170安打のスランプを予想して、その170安打に対して自分から進んで立ち向かう気持ちを持った。170安打。よし、次ぎは171安打。次ぎは172安打、と1安打ずつ数えてその数字に立ち向かった。外から見ている分には、毎年と同じ様に200安打に向かって、1安打ずつ積み上げている様にしか見えない。外からは。ところが内面では全く異なるイチローであった訳なのです。これは心理学でいう所のゲシュタルト的転換の一種です。
 ゲシュタルト的転換とは、「あばたも笑くぼ」ということわざの事で、その人の事を愛して心が舞い上がっている時は、あばたまで笑くぼに見えてしまう状態です。ところがその熱が冷めて、冷静になって相手の事を観察出来る様になると、笑くぼに見えていたあばたが、正しくあばたと認識される。同じもの、同じ出来事が、同じ人の認識において、全く正反対の評価に転換する事なのです。
 イチローも今迄「嫌だ、嫌だ、出来たら逃げ出したいなぁ」と思っていた事に対して、いや、どうせやって来るなら逃げ出していても仕方が無い。ここはよし、ひとつ「迎え撃ってやろう!!」と考え方を正反対に置いた訳です。確かにイチローの残した結果やプレーは天才的ではありますが、彼とて1人の人間とするなら“まだ34歳!”成長の余地はその分、まだまだあるでしょう。逆に言えばそれだけまだ未熟であるとも言えるのです。
 私は社員の皆に、初めに教える心構えが“迎え撃つ心”というものです。逃げて、逃げて、逃げ切れるものなら何としても逃げたらいい。しかし、逃げられない事ならば、一歩も引かず、むしろ一歩前に踏み込んで受ける位の“迎え撃つ心”を持とう!!と教えています。例えば、毎月支払わなければならない家賃。月末迄に支払う家賃を月末に支払う人があります。これは一般的。中には、必ず遅れて翌月に支払う人もあります。私は同じ支払わなければならないものなら、ほんの少し他人より早く支払い続ける事によって、その人が相手から得る信用は、とても大きなものとなると考えています。同じお金の支払いでも結果が良いならその方が良いに決まっています。
 この“迎えうつ心”という言葉は、とても便利な呪文です。日常のちょっとした時に、嫌だなぁという気持ちが過ったなら「いやいや、ここはひとつ、迎えうつ心だ!!」と自分に言い聞かせると、心が明るくなります。久しぶりに“迎えうつ心”を思い出したイチローの番組でした。おしまい。


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