2008年02月28日
「移り香」という事が言われなくなって久しい
昔、豊臣秀吉が狩りに出掛けたその帰りに、茶屋に立ち寄った。茶屋の主人と独りの小僧がいた。秀吉一行を見た小僧は注文を聞く迄も無く、奥へ行ってお茶を持ってきた。喉が渇いていた秀吉達は、冷めてはいるがそのお茶を飲んで咽を潤した。
すると、しばらくして又小僧が熱いお茶を持って現れた。秀吉は、「おい、小僧、先程のお茶は冷めておったが、今度の茶は熱い茶だが、それは一体どういう訳か?」と問うと、小僧曰く、「お侍さんは狩りに行かれ、咽がお渇きのようにお見受けしました。お茶をきちんと煎れるより、まずは渇きを癒して頂こうとお出ししました。そしてその間に湯を沸かしておりましたので…」と答えた。秀吉は「何と感心な小僧!!」と言って、茶屋の主人に向かって、その場でその小僧を小姓にと申し出て、貰い受けた。この小僧こそ、後の石田三成であった。秀吉は身分に捕われず、優秀な小僧を数多く召しかかえ小姓とした。それらが後年秀吉の天下の中枢を任っていったのである。日本にはこの小姓という制度や師匠に弟子入りする徒弟制度、又小さい頃より奉公に出される丁稚等、社会には多くの大人の智恵を授かる賢い方法があった。
昔から「移り香」という言葉があります。いつも一流のものや一流の事、そして一流の人々と交わっていると、本人は全く意識する事は無くても、自然とその臭いがその人にも移る、という事の表現だ。今風に言うなら「類は友を呼ぶ」のような反対語のような…。
自ら進んで一流の人物(本当は超一流がお勧めですが、これは殆ど見当たらない)と交わる事によって、自分も一流の人々の類となってゆく。
他にも良い悪いは別として、今日は民主主義/個性尊重の時代。父親や母親が子供に敬語を使ったり、ペット迄同じような扱いをする事もある時代です。
私は今が良くない、昔が良かったなんて事を言うつもりはさらさらありません。今はある意味、とてもヒューマニズムに満ちた時代でもあるし、又昔も違った意味でヒューマニズムに溢れていた。どちらかという両極端な選択をしている時代は、まだ未熟さの残る教養だと思う。是々非々として、しっかりと良否を見極める力が必要。
そんな意味で今日は昔は良かったというお話をしたい。
今の自分を変えたい。新しい自分を創りたいと多くの人々が思っている。その方法として自分で本を買ったり学んだりしながら努力をする。ただ、この方法では殆どの人が失敗する。何故なら辛い、しんどいから、日々の仕事に埋没してゆく。
自分で発奮努力して運命を切り拓くのも良いが、一方、他者に寄生するように、他者の力を借りて自分を創るのも昔は前述のように一般的だった。私は若い内は他者の力を借りて自分を育てる方が良いと思う。自分で十分力が付いたと思ってから、独り立ちした方が人格形成はスムーズだと思う。
隣人愛に溢れた先人の元に身を預け、心を託して働き、ともに進歩発展する事は賢いやり方だと思う。
この方法のポイントは、自分は身を預けている人の一部だ。その人の一部であるという謙虚な気持ちを持ち続ける事だ。その人のために働くという事は、即ち自分のために働くのと同じであると考える。 人はこのように思って働くと気持ちのブレーキが無くなり、全力が出し切れる。決して小賢しい智恵を出したり、目先の利益に気を取られ迷ってはならない。他者によって自己成長を促進しようと決意いたら、昨日迄の自己はきっぱりと捨てる位の心意気で飛び込む。過去の習慣や感情、癖等を引きずっては上手く行かない。もしそれが出来ないというのなら、仕方が無い。成功の確立は少ないけれども、他者をアテにせず、自分改革の厳しい道を独りで歩むしかない。
例えば、痩せようと思ったら、食べる量を減らす方が良い。同じだけ食べて、その分運動を多めにする等と理屈を付けるより、きっぱりと決心する方が良い。畑の雑草を引き抜かないで、野菜にだけ肥料を多くやる事を考えると分かりやすい。
ただ、ダイエット等は簡単だが、今どき自分を捨てて身を預けられうような、そんな人物に出会う事は、もっともっと難しい、自己変革よりも難しい道なのかも知れない。
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