2007年12月30日

TOKI-WA-SOH忘年会

 このブログやTOKI-WA-SOHサイト制作でお世話になっているアートディレクターの吉本さんが、教鞭を執っているデザイン学校の生徒さん20人程を連れてTOKI-WA-SOHに来られました。年の瀬の忘年会という訳です。たまたまその日、私の同級生仲間3人と仕事についてのミーティングが有り、その流れでおじさん達も加わった合同鍋パーティーと相成りました。25日から続いていた様々な面々との TOKI-WA-SOH忘年会でしたが、最後は若者達との賑やかな締めを迎えました。その人数もさる事ながら、締めにして初めて女性も混じった忘年会。とにかくおじさん3人はただただ嬉しいのです。お酒を飲んで、鍋をつついて、話がいろいろ繰り広げられ、TOKI-WA-SOHと英徳館はいっぱいいっぱい「良い気」を吸って、きっと幸せだったに違い無いと思う。こうしてたくさんの人が集う場所は間違い無く「イヤシロチ」(イヤシロチのお話はコチラ)なのです。皆さんありがとうございました。

 明け方になってもまだおじさんの話にお付き合いして下さった数名の皆さんに対し、私は「どんな夢を描いているの?」という質問を1人1人に投げかけました。デザイン学校に来る迄国民休暇村で働いて
いた男の子は「何となく自分としては違う事をしてみたくて、26歳にしてデザインの勉強を始めて、デザインに関わって行きたい」と言い、鳥取から来た女の子は「鳥取ではデザインの勉強や仕事が無いので、関西に来たけれど、いつか地元でデザインの仕事でご飯を食べられる様になれたら…」と言い、又違う男の子は「伝統工芸師のお父さんの仕事を世の中に知らせて行ける様、デザイナーとなって手を貸したい。そのために来年東京で就職する」と言い、「デザインの勉強をする事で、デザインだけでは無い、様々な事を知ら無ければならない。その過程で視野が広がるのが嬉しい」と言う女の子がいたり。デザインを通じて世の中の役に立てる人間になりたいと言う、彼、彼女。今はデザインよりも人と関わる仕事をしてみたくなって悩んでいる彼女。皆皆とっても美しい心の持ち主。感動、感動。ウルルンウルルン。ちなみに私が若者達と同い年だった頃の目標→「学習院大学へ行って、べっぴんのお金持ちのお嬢を口説いて婿養子(でも姓は変えない)になって、それを足がかりに花の都大東京で立身出世をして、ひと花咲かせたる!!」でした。
 当時は「逆タマ」と云う言葉もまだ無い時代。「水呑み百姓の小せがれが成り上がる方法」等と悦に行ってました。正直、学習院大学法学部を受験しました。その時の試験助手のお嬢様を見て、「やっぱり俺の考えに狂いは無かった。ファーストコンタクトで、やったー!!」と心の中で呟きました。そして試験の結果は「合格!!」。私の成り上がり作戦は見事第1関門を突破したのでした。その後訳有って、次のステップには進めず「チーン」。未だに京都でこうしております。
 若者達と向き合って認識した事、1つは「やっぱり時代は動いている」。マグマは明らかに入れ替わりつつある、と云う事。そしてもう1つが「やっぱり若者は魂の大先輩だ」と云う事。大抵の大人は若者に対し「後ろから付いて来る」と先入観を持っていますが、ぼくは魂の輪廻を信じていますから、肉体は大人の方が若者より先輩だけれども、魂は大人より若者の方が300歳は先輩なのです。私事で恐縮ですが、長男が生まれた日に病院で初体面した時、「あ!!!俺はこの人の部下として生きていた過去がある」と感じました。私は女房に向かって「おい!!これは俺達の子供じゃ無いぞ。真面目に頑張って生きて来た夫婦に対し、神様が授けた尊い宝だ。大切にお守りしないといかん」と真顔で言うと、女房には「こんな親バカ有り得へん。世界イチの親バカとはあんたの事や!!」と言われてしまいました。修行の足りない女房には私の事を理解するにはちょっと無理が有った様です。
 子供や若者から気付かされる事って、やっぱり本質的な事ですね。おじさんは口は達者でも、ピュアなハートには到底かなわないですね。心地良いサプライズに出逢えた年の瀬でした。

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2007年12月28日

「暴力は親に向かう」

「暴力は親に向かう」とは最近読んだ二神能基さんという方の著者の題名です。一瞬私は「暴力はわが子に向かう」じゃないかと見直した位です。
 何故か私の長女は自我がとっても強い子で、とても親的には難しい子供でした。2歳で私が叱ると裸足で外を飛び出して「死ぬぅ!!」なんて言い出すし、幼稚園では私がしばいたのが強過ぎて鼓膜が破れて病院の先生にこっぴどく叱られたり…。又ある時の事、小学校になると子供は電話に出たがるようになりますが、長女は私の不在の時に電話に出て、私がいないと「今日、おとうさんマアジャン」と応えるし、小学校5年生迄は、私をヤクザだと本当に思っていた様です。
 そんな娘が小学校6年生の頃、授業参観がありました。私が出席したのですが、参観後のPTAの会議の場で、学校の考え方は間違っていると前に出て黒板に板書きして訴えたら、先生とお母様方全員対私という険悪な構図になり、娘に2度と参観には来るなと言われる始末。娘に対し「中学を卒業したら働いて家にお金を入れろ」と言うと、授業料は後で返すからと勉強をし始めました。私は腹が立って、わざとテレビのボリュームを上げて勉強の邪魔をして、何とか高校へ行けなくしようと必死。とうとう最後は胸ぐらを掴んで振り回したらTシャツがびりびりに破れた。それでも長女は私の目を睨み付けたまま微動だにしなかった。正直言うと私の方が恐かった…。「私の人生で消せない汚点は、お父さんの遺伝子が私にある事。」と迄言われ、同じ部屋で同じ空気を吸う事さえお互い嫌悪する仲に。
 そんな長女に変化が現れたのは、高校の途中から大学受験を控えた頃。夜も更けたある日、家に帰るとファイルに入った文章に、何やら赤ペンで添削したものがチラッと見えたのです。何気なしに読むと、娘の受験用の論文の下書きでした。高校の交換留学制度を利用して、推薦で受験という枠等でアメリカのハイスクールを卒業するらしい。ところが、私的に見て、どうもこの添削が気に入らない。そこに愛が感じられなかった。
 私は勝手にその下書きを添削しまくっておいたのです。長女は翌日それを読み、何を思ったのかそれからは3回の論文全てに私の添削を求めてきたのです。今でも「おまえが大学合格したのはお父さんのおかげやぞ!!」と言うのですが、別に「うんうん」と適当にうなずいたりで、拍子抜けの感。それから娘はピースボードで6ヶ月世界を周ったり、アメリカの大学院の様な所へ半年留学しました。就職を控えた今、最も信頼出来る相談相手は私なのだそうです。
 私はずっと変わらず「父親はこう考える!」ただそれだけを真直ぐに子供達にぶつけてきました。

 …それでは、「暴力は親に向かう」の抜粋。
-子供が後に家庭内暴力を引き起こす原因は、子育ての段階から、親子関係そのものの中に、実は潜んでいる。それは「友達親子」という関係だ。親という威厳を振りかざし、あれこれ子供に命令することのない親。子供と「上」から接するのではなく、子供の「横」も寄り添う親。今の大部分の家庭が子供に指針を示さない事だ。「指針を示す」とは、親が子供に生き方を示すという事。言い換えれば、親が自分の価値観を子供に押し付けるという事である。しかし、友達親子にはそれができない。「自主性尊重」という名目のもと、「あなたはどうしたいの?」と横に寄り添うばかりである。そうやって指針を示さない事の問題は、結果として、「子供に反抗期を与えない」事である。親が上から抑圧するからこそ、子供はそれに反発して、自分の「道」を切り開こうと必死になる。その最初の一撃が、反抗期となって表れる訳だ。反抗期とは、子供が大人になる上で体験しなければならない大切な成長の過程なのである。だが、友達親子の場合、反抗期を持つ機会を親が奪ってしまうのだ。
 では、そんな友達親子が、何故家庭内暴力の原因になるのか?それは子供が友達親子のごまかしに気付いた時に、猛烈な怒りとなって親に向かうからだ。子供達はこれまでの人生を「親の希望のレールの上を、親に騙されて歩かされてきた時間。」としか思えないのである。
何故そんなギャップが生まれるのか?ほとんどの親は、子供に強制しなくても、何となく「こんな学校もあるよ。」などと、自分の望みを子供にきちんと伝えている。すると、子供は無意識のうちに察知し、いつの間にか親の望み通りの道を選んでいる。結局、親の欲望に子供が知らない間に付き合わされているのだが、これを親は、「子供が自主的に選んだ」という話にすり替えているのだ。ここに友達親子のごまかしがある。友達親子の最大の問題点は、子供がごまかしに気付いた時には、もう自分の足で歩く力を失っているという事である。子供達は必ず「犯人探し」を始め、親のごまかしに気付き「暴力は親に向かう」-

 親子関係とは…?


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2007年12月26日

「おもちゃ売りのオサムちゃん」

私の周りには、多分「類は友を呼ぶ」宜しく、とても個性的な人達が多いらしい。わが社の本部長は社長の友人の変な人ランキング等というものを付けたりしている位だ。
 その中の1人、“おもちゃ売りのオサムちゃん”とも結構長いお付き合いになるが、オサムちゃんの身の上話を聞いたのは、これが初めてだった。
 元々オサムちゃんと私の出逢いは、オサムちゃんの奥さんをうちの社員がうっかり大怪我をさせた事から始まる。社員と本部長に丁重に前後策をする様に指示をしたのであるが、それがどうも誠意に欠け不十分だったらしい。あまりの怒りにとうとう本社へやって来た。玄関の方で「社長を呼べー。」と大きな声がする。とにかく奥へ入って貰って私が挨拶をすると、事の経緯を遠々とオサムちゃんは怒りを交えて話し始めた。私はこういう場合、話の内容もさる事ながら、オサムちゃんの目を見て波動を感じる様に努める。ひとしきり話し終わった後、私が出した答は「うちの社員の方に非があり、人の気持ちが分かってない」。私はオサムちゃんの言う事が正しいと思ったので、すんなり「ゴメンナサイ。以後は全部私が精一杯の事をさせて貰います。」と頭を下げた。やっぱり私の見込んだ通りオサムちゃんはいい人だった。さっきの剣幕が嘘の様に、「わしは社長が気に入った。もう何も言わん。後は任せるからよろしゅう頼むわぁ。」と言ってお帰りになった。
 それからというもの、奥さんの事故の示談に至る迄、当事者のはずの私が保険会社とオサムちゃんの双方の代理人として解決するという、信頼関係が生まれた。
 そして、いつからか分からないけれど、、オサムちゃんは私の事を「オヤジのためやったらワシ何でもするで!!!」「オヤジー」「オヤジー」と、私はオサムちゃんのオヤジになってしまった。でもオサムちゃんはどう見ても私よりは10歳は年上のはずなんだが。そんなオサムちゃんと深夜遅く迄お話をする機会があった。以後はそのオサムちゃんの身の上話から…。
 オサムちゃんは若い頃から「オヤジさん」という人と「兄きィー」って言う人の中で育ったらしい。でも奥さんは、「この人これでも高校出とんねぇー」「おかしな知恵だけは天才的にまわるねん」と言っていたから、多分高校は卒業か中退して「その」世界に入ったみたい。とにかくオサムちゃんは「しのぎ」と呼ばれる仕事をしなければならない。それは自分の分だけでなく、「オヤジさん」と「兄きィー」の分迄。とにかくいろいろやっておられたみたいだけれども、荒っぽい仕事はオサムちゃんは苦手らしい。ある1人住まいの老婆の家に借していたお金を払って貰おうと行った時、水道が止められ、水も入れられず、カップ麺を食べられずコタツにうずくまっている老婆を見て、「おばあちゃん。この金で水道出して、うまいもんでも食べとき。」と言って30年位前に10万円程のお金を渡して帰ってきたらしい。とにかく「オヤジさん」と「兄きィー」に怒られたのなんの。でもきっとオサムちゃんのキャラだと思うが、バリカンで丸坊主にされて収まったらしい。こんな劇画の様な話があるんですね。
 オサムちゃんは荒っぽい仕事はからっきし駄目な様だが、縁日の「おもちゃ売り」だけは天才的な閃きを発揮する。
 では、その天才ぶりを1つずつ、ここに披露します。
 1.おもちゃを台の上にいっぱい乗せて、自分は売り場の外をウロウロする。そして身なりの良いご婦人が子供を連れて来るのを見つけると、丁度自分の店の前に来た頃合を見計らって、子供のつま先をギュット踏んずける。すると子供が痛くって「ワァーワァー」と言って泣き始める。すかさず台の上のおもちゃを子供に渡すと子供は泣き止む。そしてご婦人に「子供さんにおひとつどうぞ!!」と言うと、オサムちゃん曰く、10人中、8~9人は買っていく。10人が10 人と言わない所が可愛らしい。
 2.桶に氷を入れてラムネを何本も入れる。当時でラムネの仕入れが15円だったらしい。売り値は50円位なんだろうか。オサムちゃんは前歯が2本抜けている。彼はその利点(?)を生かして、「冷っこいで~。」「冷っこいで~。」を早口でくり返す。何度も練習して身に付けたらしいが、「冷っこいで~。」「ひゃっこいで~」…「100円やで~」と聞こえる位にひたすら早口で唱えるらしい。若い衆にも練習させて、ひたすら皆でこれを連呼するのだそうだ。すると面白い様に勝手にお客さんが100円を投げ入れラムネを1本買っていくらしい。とにかくよく売れるのだとか。
 3.オサムちゃんが最も苦労したのがヨーヨーの風船つりらしい。風船釣りはあんまり縁日でも人気が無いものに入るとか。考えに考えた末、1回50円のヨーヨー釣りに、風船の中に5円玉、10円玉、50円玉、100円玉、500円玉を無理矢理入れてふくらませるらしい。するとみんな儲けようと金額の大きな硬貨の入った風船を釣ろうとして、失敗するらしい。人間の欲を逆手に取ったアイデアだ。
 4.次は本当にヒットした「カラーひよこ」の話だ。ひよこ売りというのは見た事があるだろうと思う。ところがオサムちゃんのひよこは赤や黄色やピンク、青色等々色取りどりのひよこが売られている。
 大体ひよこ売りのひよことは、養鶏場で選別され、少し弱そうな、はねられたひよこを安くで買ってくるらしい。元々弱いひよこだから、殆ど鶏にはならないそうだ。そんな弱いひよこにカラースプレーをかけて色をつけるとカラーひよこが出来上がり。大抵の場合「つがいで下さい」とリクエストがあるらしく、男の子らしい色のひよこと、女の子らしい色のひよこをひょいと2羽渡して、「はい、つがいで1000円」と言うのだそうだ。どうせ大きく育たないからオサムちゃん曰く「これでいいのだ。」という事だ。
 これはかなり荒稼ぎになって、他でも真似をする者が出たらしい。最盛期には4トントラックでひよこを買いに行ったというから相当なもんだ。ところがある日、かなりの剣幕でどなり込んできた人がいたらしい。「おい、あのひよこ、鶏になったら色が取れてしまって普通の白い鶏になったぞ。コラ、どういう事や!!」「まさか鶏に成長するひよこがいようとは、まいったなぁ~」
 5.最後はタコ焼きを売りに売りまくった史上空前の話らしい。オサムちゃんは頼みに頼み込んで神社の参道の一番最後で、そこから境内の広くなる場所を確保した。そして、何時間も前から若い衆とタコ焼きを焼きまくる、焼きまくる。そうして、タコ焼きの鉄板の下にその前もって焼いたタコ焼きを積んでおく。鉄板の熱で下も結構温かいらしい。そして注文が入ると、いちいち鉄板で焼いたタコ焼きを包んだりしないで、下から「ホイッ」と手渡すのだそうだ。そして何となく怖そうなお客さんが来た時だけ、鉄板のタコ焼きを渡すらしい。そうでもしなければタコ焼きはそんなにポンポン焼けるものでは無い。しかし、オサムちゃんはこれで終わらない。どうして境内の際に陣取ったかと言うと、境内で座って食べて貰うためだ。若い衆に「お前ら、出来る限り椅子持って来い!!」と言うと、皆、その近くのバス停や駅のベンチを担いでやって来たらしい。「アホかお前ら。けどしゃぁないなぁ。よし、そのベンチを境内に置け!!」なんて感じで、当時はこんな風にでも正月は大目に見て貰えたそうだ。そして売れに売れて、売り上げ保管もひと苦労、タコ焼きの粉を練るバケツにお金を入れ、長靴で踏んずけながらタコ焼きを売ったそうな。
 「オサムちゃん、これは面白過ぎるで。俺、ブログちゅうのに書くわぁ。こんな話は皆に知ってもらわな!!!」「えー!オヤジ堪忍しなえなぁ。こんな話はここだけの話や。あかんあかん、絶対あかん!!!」オサムちゃんは額から急にブルブル汗をかいて真っ赤な顔をしている。可愛いいなぁ。オ・サ・ムちゃん。


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2007年12月25日

Do You Know「五條楽園様式」

私は「TOKI-WA-SOH」の原型の不動産を買い求めて初めて知った事があります。正直言って京都に約50年住んでいながら…なのです。それ程迄にこの五條楽園という地は、ミステリアスで発見と感動に満ち溢れたエリアなのです。友人達はこんなに私がこの地に入れ込んでいるのを見て、「お前、さては河原に眠っていたベッピンの霊に取り憑かれたなあ~」と笑いながら言います。『憑き神』なんて映画もある様に。実は私は本心では、「憑かれた!」と感じているのです。なんて言うのは「ウソ!ウソ!」
ひとえに私の「可愛い美意識がビンビン反応するのです!!!」
 前置きが長くなりましたが、この私が「ビンビン」来るもの、それは「五條楽園様式」という単一属単一種の何とも言えない様式美なのです。その昔、そう大正から戦前にかけて、この地のみに多数存在したであろう、五條楽園というパラダイスのみに存在した様式なのです(ある週刊誌の戦前の日本の風景という写真に五條楽園というのがありました。そこにはやはりその様式の建物が灯りに照らし出され、その前に洋装の女性が3人立っていました。五條楽園様式=洋装だったそう。一方は京町家=和服の構図でしょう)。
 その様式を殆ど手を加えられる事無く、今日迄保存している館は、外観だけで有れば数軒、その内装迄含めると、「TOKI-WA-SOH」が唯一なのでは無いだろうかと内心思っています。「確信している。」が正しいかも知れません。前にも書きましたが、長い長い日本の歴史の中で、ほんの一瞬でも存在した私達の歴史、少数であってもちゃんと京都の歴史を生きた館を残してあげたい。持主のご主人に申し入れた時、「往時の偲ばれる様に復元して使いたいので是非お譲り下さい」と伝えました。「嬉しいね。あなたにお譲りします。完成したら案内下さいね!」とのご返事。私は又少し京都のお役に立てると思いました。
 「五條楽園様式」についての詳細な記述は差し控えます。ホームページ上でご覧頂く事も出来ますが、正しくはこの地に足をお運びいただいて、「TOKI- WA-SOH」をじっくり味わっていただいた後、このエリアを散策していただくのが良かろうと思います。和でも洋でも無い、この地だけの五條楽園様式の現存建物を見つけたら、きっと「カワイイ!!」と叫ばれる事でしょう。私だけでは無く、後5名程の「取り憑かれる」幸運な方を現在募集しております。
 この気持ち良さを独り占めする事への罪悪感から渋々情報をご提供する気になりました。この情報は正にとっておきの内部情報につき、決して決して他言されませんよう、くれぐれも宜しくお願い申し上げます。


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“ミラクル”が最上じゃないと思う

日本に居ながら海外と電話をする所謂国際電話という方法は、現代では空を飛ぶモバイルと海底ケーブルを使う通常電話という2つの方法があります。昔は海底ケーブルの国際電話しか有りませんでした。日本から例えばアメリカまで長い長いケーブルを敷設するのは、とても大変な事だったそうです。でも、もっと難しい事は日本から発した信号が、ケーブル内を通っている間に弱くなり、とても遠く迄は届かないという問題らしい。それで、海底ケーブルの一定の区間にブースターという信号強化装置を組み込んで遠くに迄届けるのだそうです。…私はつくづく“人生はブースター”だと思うのです。
 少し話が飛びますが、本当に誰も信じて貰えない様な不思議な体験と儀式(と言うのか?)の様なものを経験し、私は力を授かったのだそうです。その力とは、「あなたが心の底から世の中の為になる事と信じて、神様の目を見てはっきりと言える事は、叶う」という力らしい。逆に「その力を自分の利益だけのために使おうとすると、とても良くない事になる。」らしい。「らしい。」と書いているのは、私は心から信じているのですが、「狂信」するという事がとても嫌な性格で、いつももう1人の自分は距離を置いたところから自分を観察する癖が身に付いているのです。「そんな力を私が授かったと急に言われてもネェ~。」って感じ。
 とにかく世の中の他の偉いと言われている医者の先生方は、私岩田を指差してはもうすぐ死ぬ、もうすぐ死ぬ、と言っている訳ですからね。半信半疑ながら、授かった力が物理的質量を持って私の体の中に入ったのは、事実、実感で有りましたから、その時は「世の中には不思議な事があるんだなぁ~」と思っていました。
 その後、正直はっきりと変わったという出来事は無く、むしろどんどん会社は傾いていきました。人生の上で、“大学受験と入院”の次のしんどい時期を迎えていました。ところが、恐らく不思議体験から1年後位から、いろいろ不思議な事が起こり始めるのです。小さな事は、自分が電話をしようとした相手から電話がかかってくるとか、時計を見ると、12時12分とか5時ちょうどとか、12時34分とか、整然とした数字になっていたり、新しい店の番号をNTTで取ったその後、前を走るバイクのナンバーが電話番号だったり、こちらが都合が悪くなってキャンセルしようと思うと、相手が申し訳なさそうにキャンセルの申し入れがあったり等々。後で知る事となったのはこういう現象を“シンクロニシティー”と言うらしい。
 私は“シンクロニシティー”の次に“ミラクル”という段階があると思っているのです。この“ミラクル”というものは、シンクロニシティーよりもっと強い現象で、通常考えても有り得ない様な出来事が起こり、自分が助けられていく現象です。日本語に訳すると“奇跡”となる訳で、こんな事、人生で1、2度あるかないかの出来事なのですが、“ミニミラクル”からミドル、ビッグと何種類も「え~!又かいなぁ~」と次々起こるのです。私の傍によく居る社員は何度も目の当たりにするもんですから、会社の厳しい状況の打開を話し合う会議でも、平気で「社長と本部長が居られるから大丈夫です。」とか「又必ずミラクルが起こりますからそれ迄耐えましょう!!!」といった会議には有るまじき意見が真顔で出てくる次第です。私も、「よし!分かった。それが我が社の生き方や。ミラクルが起こる迄諦めんとこうな!!!」と真顔で答える始末。
 しかし、実は“ミラクル”で終わりでは無い。その次の段階がある。その段階を“ブースター”と名付けたのです。いくら力があると言っても自分の感覚ではテレビでよくある「私は神だ」とか言う凄い力を見せたりする事、所謂“ミラクル”はうさん臭いなぁと思うのです。実は神様とは人間の美しい想念の集合体の様なところがあるんじゃないかと思っていて、「苦労をしながらも正直に素直に命の炎を燃やし尽くす事が最も美しい神業」だと思っていて、その事によって人生で起こる全ての出来事が神の恵みだと思う。
 それともう1つ、人は「思う」という力を持っていて、「思う」力で神をも生み出せる生き物だとも思っています。この内容は又改めて触れたいと思っています。
 “ブースター”とは、「苦労をしながらも正直に素直に命の炎を燃やし続けて生きると、神の恵みとも言うべき今世でのとてもとても大切な人に出逢う。或は出逢わされる」という様な事です。単なる例では有りますが、人間関係における徳川幕府の“親藩・譜代外様”の様なものだと思うのです。その“親藩”に出逢う。その人に出逢う、或は出逢わされる事によって、人生をより力強く生きてゆくエネルギーを貰う、或はそれ迄の人生が報われ心が癒され、平穏な自分を取り戻せる。こういう事が現れると思っています。
 “シンクロニシティー”“ミラクル”“ブースター”この3つが日々の人生にどれ位起こるのかをしっかりと観察し、自分の生き方を修正しながら命を任うする事こそが自力と他力の融合した真の“神業”であると思う。私は世間の“神”の認識とはかなり異なっています。しかし、私が命を賭けて、全人生を賭けて至った答えには違いありません。いずれ回を改め“ブースター”ってどんな人なんだろうかという実例を書いてみたいと思います(この項は又の機会へ続きます)。


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2007年12月24日

英徳館とパヴァロッティー

TOKI-WA-SOHの隣の棟が英徳館だという事は、このブログをお読み下さっている読者の皆さんはご存知でしょう。英徳館はTOKI-WA- SOHの「洋」に対して和と云う対比を見せています。それは1つの真理を表現するもので、男女、陰陽、静と動、表裏等と呼ばれるものです。北側の表玄関から入って来られたお客様は、タイル張りにステンドグラスそして鮮やかなテントという洋風モダンな外見から中に入り、如何にもという洋風階段や「カフェー (ノスタルジックなあのイメージ)」という風情のレトロカフェに出会い、内装を眺めるごとに「カワイイー!!!」と叫ばれるのが常です。そして奥に進むと結界を越えるが如く、大きな階段箪笥が目に飛び込み、石畳の「はしり」に高い高い吹き抜け(類焼を防ぐための火走り)、2階は江戸時代にタイムスリップした様な講義所。そして留めは庭のある応接間。ざっと全体の構成はこんな風になっています。
 今日はその中でも庭付きに応接間に対する思いを書いてみようかと思います。入口の建具は山吹色の紬を貼った襖の引き違い。その襖に細工の格子があって、部屋の中に灯りが点灯していると、格子から柔らかな光が外に漏れるのです。又、襖を閉めると2枚の引き戸の格子窓が1つになる工夫が成されているのです。そして和室なのに板張りという設え。これは李朝家具らしき明治時代の唐木の応接セットをどうしても置きたかったからです。この家具は昔事業に成功されたお爺様が洋酒棚とその応接セットを買われたそうで、螺鈿細工の見事さには「素晴らしい」としか言い様が無く、現代の価格に換算しても
一体幾らするのか分からない代物。応接間のデザインコンセプトは応接セット有りき、から始まった。しかし英徳館は純和風。これが曲者。実は純和風とは、伝統の技法と高級な材料、そして「侘び」「寂び」をお決まりのポイントに使えば、はっきり言って趣味の良さとか、文化人になれる。私、コレ、大嫌い。熟れて完成して後の伸びシロが有る様には感じられ無い。サッカー選手三浦“カズ”和良の様にどんどん若手に追い抜かされて、過去の栄光も色褪せても、いつ迄もいつ迄も「現役」にこだわって生涯その意志を貫く脂っ濃さの中に生命の輝きを感じるのです。中田選手の対極の様なカズらしさ。私の周りに居る人々も私は毒を吐き続ける姿を楽しんでいる。その内面を建物で表現すると考えた時、「安土桃山時代」と「幕末・明治」が思い浮かびました。以前に私の別宅において「豊臣秀吉は成り金趣味か粋人かを検証する」をテーマに自分の居間を「聚楽第」と同じ様に朱と金箔で造りました。そしてその中に身を置き、時の天下人に思い馳せてみました。「成る程、こんな気持ちになるのか」と。
 「侘び」「寂び」千利休以降。それ以前の和風とは一体?金閣寺は否や?それこそいろんな思いが交錯し始めました。今で言う和風は金閣寺には当てはまらないし、安土桃山文化もやはり同じ事が言える。しかし私達日本人が生きているこの国の歴史の中には、確かに存在した時代の好みや様式美。ならば歴史上に存在したもの全てが和風じゃないか。私自身もやはり日本そのもの…。
 かの様に上記事項を考え抜いて造ったのが、応接間という訳なのです。今迄の時代を否定し、新しい時代が生まれようとする狭間のエネルギーが充満している、そしていずれ大きく爆発するそのエネルギーが溢れた様式美。それが金閣寺で有り、安土桃山城で有り、無隣庵でありましょう。
 そして現代、正に大きく変わろうとする歴史の胎動期に、ここから勇躍するであろう若き志士達に思いを馳せて、私は「英徳館(そしてTOKI-WA- SOH)」を造りました。環境という場の力を借りて、ここに集う未来の指導者諸君やクリエイターに精一杯のエネルギーを送りたいと思います。
 今英徳館のBGMにパヴァロッティーを流しています。織田信長がポルトガル製のコスチュームを身に纏い、地球儀を廻しながら葡萄酒を飲んでいたあの頃、伊藤博文や山県有朋が無隣庵で日露戦争開戦を協議したあの時、確かに紛れも無く日本の時代一幕で有り、彼らも又、紛れも無く日本人で有った。ワ私は郷愁にも似た感情を伴いつつも、新たな希望を見い出しています。


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五條楽園歌舞練場と初デート

日頃は忙しい私、珍しく今日は夕方から比較的時間の余裕があった。友人に会おうかと電話すると、都合が悪いらしい。そういう時は流れに決して逆らわない。すると案の定、その後2人の来訪者を迎える事となった。そして何気なくポストを開けてみると1通の案内状。以下はその案内状の文面「たからづくし」。
 「心せわし心おどる師走がやってまいりました。いかがお過ごしでしょうか。ひと・もの・ばしょに出会いながら、さまざまな挑戦を続けてきた今貂子 (ima-tenko)+倚羅座(kiraza)は、今年『五条楽園歌舞練場』に出会いました。時の流れの中で、今もひっそりと息づくパラダイス。“年わすれ年むかえ めでた目出度や たからたち 天晴れ ハレ舞台に舞い踊る!”にぎにぎしくご来場賜りますよう、心からお待ちいたしております。」とあった。
 今日の私の夜の予定が空いたという偶然、私も一座も五条楽園歌舞練場は初対面という一致。これはいつもの“ミラクル”の臭い。今夜、ここで公演を観る事は全て「必然」だったはず。
 私はいそいそと、まるでデートに出かける感覚にも似た軽い高揚感でお出かけ、と言っても雪駄履いて徒歩1分。今の人々には経験がないだろうが、映画や盆踏り、みんな近くの講会堂へ出かけて行って町内で鑑賞したものだ。そんな芸能と村々の原風景を思い出した。
 TOKI-WA-SOHのご近所の五条楽園歌舞練場は、どちらかというとさびれた感でひっそりとした佇まいで、とても華やかな五花街の歌舞練場とも異なり、ましてや劇団四季のミュージカルを公演する京都駅の大ホールとは真逆、対極に位置するような場所だ。
 歴史的に少しこの五條楽園を説明すると、9世紀末頃、嵯峨天皇の皇子であった左大臣源融(とおる)が造営した邸宅で、『河原院』と称するものがこの一帯に建てられたのが最初。それまでは鴨川の河原の荒れ地であった。その後は荒れるに任されたが、その後、江戸時代に遊廓であった京都島原が大変に栄え、その京都島原の飛び地としてこの地に五條楽園の前身として艶街が造られ、今日に至っているのだ。今では遊廓もなく、かなり寂れた感があるが、往時をしのぶ街並みがまだ残っており、京都の中でも風情のある場所となっている。今でも1100年前くらいの楠が1本ある。
 公演の舞台は2階にある。ここは今ではとても珍しい木造の3階建てなのだ。会場は20メートル四方くらいで、前の3分の1くらいが1段高い舞台となっている。暖房設備なんて気の利いたものはない。座布団を敷いてせいぜい100人が限度くらいのホールという感じ。
 そこで繰り広げられた芸能は、全身を白く塗り、主に1人、ないしは2人の踊り手が、自分の肉体という道具で表現するというもの。少なくとも全身真白で、滑稽とも言える身のこなしは、三条河原で出雲の阿国が阿国歌舞伎を披露し、当時の都人を驚かせた歌舞伎の原初的な風景のようだった。演者が塗った粉が舞い散り、その踊りに込めた情念が力を持って迫ってくる臨場感は感動的だ。そしてそれを包み込む歌舞練場という入れ物が、より一層その雰囲気を盛り上げている。
 「TOKI-WA-SOH」におけるクリエーターと入れ物の創発を感じた。劇団四季のミュージカル『ジーザスクライスト・スーパースター』というものを最初観た私には、動きの速さ、人数、入れ物、情念等々、日本ならではの日本人的表現にその文化の色を見た。阿国が我国の歌舞伎の原点となり、今日の隆盛を迎えたように、これとは言えないまでも、このような現代における未来の日本の歌舞伎のプロトタイプにならないとは誰も言えないのではないだろうか。
 五條楽園歌舞練場と初めてデートをして、その魅力に取り憑かれたかも知れない。これからもこの魅力的な五條楽園歌舞練場とともに素敵な時間と思い出を築き上げたいと思った。
 
 有難うございました。お誘いいただいた事に心から感謝致します。やっぱり日本はいい。京都はいいと心から思った。


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2007年12月23日

私の恩師「ウィルスさん」の事

 「思い出のお金持ち」で少し触れた、死期の予告について、もう少し書いてみようと思います。「オーストラリア抗原菌プラス」って聞いておわかりになりますか?
 私が19歳の時の医師から告げられた病気の原因だったのです。当時はまだそんなに国民病になっていなかったのでしょうね。実はこの病名、今はB型肝炎とかC型肝炎などウィルスに感染して発症する肝炎の事だったのです。
 40度の高熱に悩まされている私にこんな事を言われてもチンプンカンプン。インフルエンザのようなものではなく、即刻入院しなければならない重病という事だけがわかったのです。時は大学受験1ヶ月前。しかも1年の自宅浪人中の最後の追い込み。先生は「大学より命の方が大事でしょ。今すぐ入院しなさい。」とひと言。悩みました。私には浪人生活はとても苦しいものだったからです。入院してまた受験勉強をする自分を思い描いて、それでも入院する事は正直できませんでした。
 私は「大学受験後にもう一度入院させて下さい。」とお願いすると、先生は「いや、もう責任は持てないから、大学受験後は他の病院へ行って下さい。」と冷たいお返事。何とか大学受験を済ませ、入学した大学の診療所の紹介である大学病院へ入院、そしてえらい教授の週に1度のご回診の折り、体のある斑点が皮膚癌の疑いがあるという事で手術。その後お腹に針を差して肝臓の組織を採られて、結果は「長くて35歳までの命と思ってください。」何が何やらわからずじまいの大混乱。おまけに感染源の調査というのがまた細かいの、ネチこいの。家族には誰も保菌者はなく、輸血の経験もなし。唯一考えられるのが異性間の性交渉。これがまた未経験なのですが、当時の医学で、小学校の予防注射による医療感染という意識がなかったのか、当時の厚生省が隠ぺいしていたのか、私の感染経路は先生の所見では「性交渉もしくはそれに擬するもの。」とされました。今、薬害肝炎で政府の保証でもめていますが、本当の肝炎の実態で大きな問題は、予防接種という病気の予防という医療行為で、逆に国民病と呼ばれるほどに肝炎をまん延させてしまった厚生省の罪を言及する声がないのは不思議です。多分証拠認定がしずらいのでうやむやになっているのでしょう。本題に戻りましょう。
 とにかく理解した事は、「私はかなりの重病である。そして現代医療では治す方法がまだない。余命はあと長くて15年。」この3点でした。あれから30年、医療も進化しましたが、当時は正直ほぼお手上げに近い状態だったのです。
 病院のベットに寝たきりで、いろいろ考えました。退院してからも6ヶ月間自宅養生でまたまた考えました。考えた末に私が達した答えが1.「35歳で死ぬという人生設計をしよう」2.「ウィルスは病気ではなく私達と同じ生き物だ。」3.「自分が病人かどうかを決めるのは、医者ではなく自分なんだ。」
 まず、1.は今回のテーマではないので、2.3なのですが、よくよく考えてみると、いったい病気かどうかは誰が何を根拠に決めるのか?どうも命に別状があるという視点で病気だと一くくりにしているように思ったのです。私はまず、癌は変化であって病気ではないと考えています。次にウィルスによって不調が出るのは、ウィルスとの付き合い方が悪いだけで、決して悪い事ではない。もちろん病気などではない。「我ら動物皆兄弟。」ウィルスさんと理解し合えたら何も問題ないという結論に至ったのです。ただ、ウィルスさんとは言葉によるコミュニケーションの手段がないので、同じ生物同志としての愛の波動によるコミュニケーションをしようというか、それしか無いのです。そこでいつも「僕もあなたも同じ神様が命を授けた尊い命なんだから、仲良くしようね。」という思念と
「人生いろいろな事を気付かせてくれて、君はベストフレンド、いや恩師なんだ。有難う。」この2つの思念で自分の体を満たしたのです。
 その後の人生は言うに及ばず。私は西洋医学のらち外に生きる例外患者となってしまったのです。今年の始めには、「ウィルスさんがどんどん減少してきてますよ。今なら良いインターフェロンがあるので完治させられます。」と先生がおっしゃったので、「先生!私の親友であり恩師であるウィルスさんを殺すなどとはもっての他。居なくなったら寂しいから、2度とそんな事は言わないでください。」と断固拒否しました。それから全然お医者さんへ行っていないので、もしかしたらウィルスさんは居なくなってしまっているかもわからない。怖いお兄さんも、ウィルスさんもこちらが敵意を持たなければ、それは相手に波動で伝わって、決して暴れたりはしないと思うのです。薬を打ったり、対抗意識を送ったり、体がマイナスの意識波動に包まれると、何とも無いものまでこちらに害を与えたりするものだという事は、私はウィルスさんから命懸けで教えてもらいました。これは真実です。事実というのは頭で理解するものですが、真実というのは胆に落とす事なのです。全身全霊その色に染まった時、西洋医学では「奇跡」と呼ばれる「当たり前」な事が人々に起こる、この自分自身に与えられた神秘の力を十二分に頼る自力の人生を送る事が、この世に生を受けた私の使命であり、神様の期待するところでもあると常々私は思っています。


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2007年12月21日

「ハリセンボンとネタ帳」

 五條TOKI-WA-SOHへの出社前にダラダラとテレビを見ていたら、ハリセンボンとデブカワの女ピン芸人(名前忘れた)が年末年始大忙しらしいとの事。「世の中の流れは変わった!」僕の子供の頃に、年末年始の番組と言えば“スタア”しか出られなかったもんだったような気がする。まぁ、そんな事はどうだってよくて、ハリセンボンは芸歴が5年、しかも濃いキャラで売っているので、「キャラが飽きられた時は芸歴が短いためネタ不足になって長く人気は続かないだろう。」とプロの批評家がコメントしていた。今後のハリセンボンは見てゆきたい。
 昨晩、友人の福丸さん(次回の茨木市議選に出馬しま~す)に、「福ちゃん、僕のブログっていうの読んでくれてるぅ~?」って電話をしたら、以外なる答え。「読んでる!」「読んでくれてんの?ほんまにー?」「読んでるよ『息子の実印』。」「ほんまや。読んでくれてんのや。ありがとう。」話はここからなんですが、「ちょっと気になる事があってね。このペースで毎日書いたらしんどいよぉ。ネタがもたんやろ。」と。「もうちょっと短かめにしたら。」とご意見をもらいました。私は他の方のブログというのを読んだ事もないし、そもそもブログが何なのか良くわからない。ホームページを管理して頂てるデザイン事務所ペーパーウェイトの吉本さんに、「できるだけ毎日書いて下さいね。そうしたらTOKI-WA-SOHのファンの方が増えますから。そうすると注目されますからね。」とだけ聞かされただけ。毎日せっせと万年筆で書いた原稿を先生の事務所にFAXするだけ。ネタの事なんか考えた事もなかった。
 どうやらこのペースで書いている人は少ないようなので、ずーっと続けたら他の人とは違った味が出せるだろう。単純にそう思ったので書き続ける事にする。
 要するにこのペースで書き続けても尽きないだけのネタ帳を持っているのかという事が、私もハリセンボンにもポイントである事がわかった。肝心のネタ帳の話なんですが、ネタは涌いてくる。ポコッ、ポコッっていう感じ。ただ、涌いてくる場所が限られている。30分間。いや、正確には15分、15分の合計30 分間。それは自宅と事務所の往復の、それぞれ車中なのです。これが不思議と車の中だけ。何でだろうなぁって考えていたところ、理由を見つけたのです。事務所の蓄音機でビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」を聴いていた時の事、ホワイト・クリスマスだからムードを出そうと電気を消したところ、音がはっきりと際立って聴こえたのです。もう一度電気をつけて聴いてみて、また消して聴いてみた。「な~るほど。」目に余計な刺激が入らないので、自然と音に集中するからだとわかったのです。そう言えば、コンサートホールも映画館もバーも、みんな暗かった。
 多分車の中は、走る事に集中しながら頭が自然にカラッポになっているのでしょうね。いろいろな雑念が取り払われたところに、埋もれていたネタがポコッ、ポコッと吹出してくる感じなんでしょうね。と言う事は、ネタ帳の有無というよりは、どれだけの資源の鉱脈が埋もれているか、それが今後のこの私の人気を左右してゆくのでしょうね。と言うかぁ、今後の人気も何も、今まだハリセンボンのように人気も出てない状態という事が明らかになったところで、テンションがダウンしました。お終い。

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「思い出のお金持ち」

 以前、私は不動産業を専門にしていた時代があります。その屋号は「有限会社親切な不動産屋さん」と言います。もう一度言いますよ。「有限会社親切な不動産屋さん」です。「ほんまかいなー?」この名前は、かなり一世を風靡しました。
 ほとんどの業界の方々は、「こんなん有り得へんで。いったい何が親切なんやね。」「何て言うて電話口にでるんやろ?」住宅情報に当社の名前が載るや電話が鳴る鳴る。「ハイ、親切な不動産屋さんでございます。」電話の向こうで「オイ、ほんまに親切な不動産屋さん言うて出とるで。」ガチャ。プーッ、プーッ。ほとんど無言電話。友人の業者さんに「この屋号にして、ほんまかどうか確認するための無言電話がめちゃくちゃ多くて困ってんねん。」とポツリと漏らしたら、相手が「ゴメン。その中の1本俺やわぁ。ガンチャンの会社やて知らんかったから、ほんまかいなぁ思てかけてみてん。堪忍堪忍。」「え!あんたもかいな。」という事がありました。
 極めつけは高校の国語の教師と名乗る女性からの電話。「もしもし、私、高校の国語の教師をしておりますが、おたくの屋号はおかしいと思います。自分には呼称としてのさんをつけるのは文法的に間違っていますので、お教えします」ガチャ。「あ、あの~、これって呼び名というか屋号なんで~。」と心の中で呟きました。こんなネタを披露できるのも、いっぱい面白いエピソードがあるからに他なりません。先日も様式美のお話をしましたが、これも私が決めた生き方のスタイルが生み出した楽しいエピソードなのです。
 私達の明治の先哲で尊敬すべき後藤新平先生(台湾総督)が「上なる社会は人を残し、中なる社会は名を残し、下なる社会は財を残す。」という言葉を残しておられます。私はこの言葉に感銘を受け、以後そのような気持ちで会社経営をしてきました。これが会社のスタイルとなるのです。これについてはいずれ詳しく別の機会にお話したいと思っています。
 私は若い頃に余命何年と告げられた過去があるのです。そしてその時考えた事が、どうせ長くない命なら「思い出のお金持ちになって死んでいこう」という事なのです。これも「思い出」と「お金持ち」と相入れない単語を使っていますが、思った事は、いい思い出も、苦い思い出も、どうせ死ぬ時には思い出しか持って行けないのだから、いっぱいいっぱい思い出を持って旅立とう、という事なのです。お金も愛する人々も連れて行く事はできませんもんね。
 「あ、借金だけは連れて行けるなぁ。」ま、そんな事はいいとして、それ以降、思い出づくりには誰よりも熱心に励んできました。今回の「TOKI-WA-SOH」も「五條英徳館」もそのひとつなのです。
 人生とはなかなか思い通りに行かないもので、「35歳までには絶対死んでやるぞー。」と意気込んで(?)せっせと思い出づくりに励んできたのに、困った事に予定が大幅に遅れてしまい、いったいいつまで思い出をつくれば死ねるんだろうと有難い悩みの今日です。
 「誰よりも思い出いっぱいの人生」こんなスタイルの人生もまた楽しいものです。今日もまた楽しい思い出がひとつ増えました。有難う。

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2007年12月20日

「明日地球が滅ぶとしてもそれでも私はリンゴの木を植える」

この言葉は西洋の誰かが残した言葉らしい。あなたはこの言葉に向き合った今、どんな思いが去来していますか?今日は正直あんまり説明したくありません。ただ、こんな素敵な言葉があるんですよ。と、お伝えした気持ちで一杯なのです…。とは言っても、そこはその~、能書きたれの私としては、何か書かないと気が済まないのですよね。ま、それも私のスタイルという事でご容赦下さい。
 今、私のスタイルと言いましたが、この言葉には、その人の人生における美学があるのです。どんなに人生の瀬戸際に立たされようと、私はこうするという美学が…。もう少し言うならば、まず先に死を考えた末にその人なりに生み出された生き方と言えます。生き方の様式美とは、実は生きてゆく事によって磨かれるのではなく、死に方を決めた後に、その死に向かって着実に今日を生きて行った、その積み重力の上にしか確立されないものだと思っています。死を覚悟した胆力を持ってしか、その人にしかない様式美は生まれない。そしてこのようにして生み出されてきた様式美だけが、人を心の底から感動させる何ものかを持ち得るのです。以上
…という事で終わってしまうと、この辺りまでは、ま、結構名のある知識人と呼ばれる人なら書く事はできます。やはり、私としましては、もうひと押ししなければ腹の虫がおさまらないという事で、この様式美を生み出す真犯人をあばいてみせようと思います。
 私は人の能力、特に思考能力ってあんまり差はないのじゃないかと思っているのです。京都は1200年の都の歴史があったから、今この評価があるのであって、京都人が偉いというより、1200年のタテイトが偉いのだと思うのです。そうでしょ。1年で京都と同じものを創れって言われたら誰だって「そんなの無理~。」って答えますよね。ところが、「1200年あげるから、どっかの田舎に創ってごらん。」なんて言えば、「ヨッシャ、一丁やったろか。」なんて思う人もいるでしょう。そうなんです。個々の人の能力より、考える、計画するその時間軸の設定を一体どれくらいにするのか、という事を意識する人は、滅多に、ほとんど、皆目、稀に、とにかくそれくらい居ないのです。だいたい無意識のうちに世間並みの時間軸を採用し、あたかもそれが正しいかのように解釈し、物知り顔でしゃべってるのです。だから、時間軸の長い発想で勝負してくる人間には勝てっこないのです。能力差ではなく「時間軸差」なのです。だから昔から「桁違い」だとか「貫目が違う」とか「間尺に合わない」などと言うように、人間の器の違いを数量単位で表してしますね。松下幸之助先生は「志とは、自分が生きている間に実現できない目標に向かって懸命けで努力する心だ。」とおっしゃったそうです。
 どうです、この時間軸の発想。この時間軸をして、松下翁を生んだ唯一の理由だと私は断言する。これがイワタ式評価なのです。今どきこれほどの時間軸で物を考えられるリーダーや政治家はおるかな?おっと、私のまわりには林先生を筆頭に、おるわ、おるわ(ちょっと大げさかも…。)やっぱり類は友を呼ぶのだという事で、今日はモンブランの筆を置きます。


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来年の話をすると何故鬼が笑うんだろう?

今日の明け方、24Hのイオンにお買い物に行きました。行幸2年目の私にとっては、本当に嬉しいお店なんです。まず大型駐車場、らくらく駐車OK。行きたい時に自分の欲しいものをあれこれと探す探検気分が味わえる。で、何を探すのかというと、割引きシールの商品。“割引きハンター”ってやつですね。ご飯のメニューも何とかハンティングした割引き商品で工夫します。とにかく幸せがいっぱいある事に感謝、感謝なのです。
 で、今日はイオンのお話がメインなのではなく、このイオンで流れていたBGMがつかみです。よく自社の宣伝歌を永遠に流し続けているお店ってありますよね。私あれ大嫌い。何か自分の事しか考えてないお店のようで買い気大幅ダウンしてしまいます。ところがイオンはジングルベルを流していたのです。“ジングルベール、ジングルベール…”「あ~、もうそんな季節なんだなぁ。」ってただそれだけなんだけれど、ほのぼのとしてしまいました。
 年の瀬が過ぎたら新年、私も50歳という(記念すべき?)歳になります。「来年かぁ~?」いっぱい、いっぱい計画があります。今年「TOKI-WA- SOH」と「五條英徳館」が完成し、来年は期するところがあるのです。「えーっと来年は~。」と考え始めたところで、ふと止まってしまいました。そう言うと昔から“来年の話をすると鬼が笑う”って言いますよね。「何で鬼が笑うの?」誰か理由を考えた事あるのだろうか?

 そこで、イワタ式定義の始まり始まり。
 「鬼」を辞書で引くと1.想像上の怪物 2.荒々しく恐るべき人 3.物事に精魂を傾ける人 4.鬼ごっこの鬼 5.死者の霊魂とありました。このことわざに言う鬼の意味するものは「未確定で予測ができないから、怖いとか恐ろしいという災難を擬人化したもの」ではないかと思う。これは基本的には宗教観であり、その先は自然環境に行き着く。砂漠の宗教であるユダヤ教やキリスト教、イスラム教には絶対神がある。そりゃそうだよね。砂漠にオギャーと生まれて死ぬまで、毎日毎日見る景色が、ほとんど変わる事なく死んでゆくとするならば、そりゃ誰だってその背後に絶対神があるって考えても至極当然ですよね。ところが、一方、東洋の宗教は諸行無常という「無常観」に覆われている。つい先日まで暑い暑いと行っていたかと思うと、もう雪が降っていたり、昨日までいいお天気だったのに、急に台風が襲ってきて風景までも変えてゆく。「ああ無常」来年の事どころか明日すらわかったものじゃない。だから人々は心の救いを求めて八百万の神々に救いを求めたのでしょう。これくらい環境によって人々は左右され、考え方も形づくられてゆく事に、今一度考えを巡らせた方がいいと思う。
 ま、要するに、ここ「TOKI-WA-SOH」と「五條英徳館」の環境をPRしたいだけなんですがね。とてもまわりくどい話なんですが、実はこの“能書き”ってやつがとっても大事なのです。京都という町は、はっきり言えば“能書き”で食ってる町ですから。でも馬鹿にしちゃいけませんよ。“能書き”って言えるもんなら言ってみろって叱られちゃいますよ。

 さぁ、やっと一番言いたい事に辿り着きました。
「来年の1月10日号のCasa BURUTUS(カーサ・ブルータス)にTOKI-WA-SOHが1ページで掲載されます。」


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2007年12月18日

チャップリンと等身大の喜怒哀楽

喜劇の王様チャップリンをご存知でしょうか?ご存知だとは思いますが、もし名前だけしか知らない方が居られましたら、是非彼の映画を観て下さい。画面から何か伝わってきます。彼の内面の持つ愛や怒りや喜び等々。「チャップリンはチャップリンであって、チャップリン以外の何物でもない。」私が19歳の時彼の言葉に出逢い、自分の生き方の基本に置きました。今日はその言葉を皆さんにお伝えします。それは、「夢と希望と明日食べるお金」というものです。喜劇王として大成功して、多くの財産を築ける地位にあるにもかかわらず、このような言葉を彼は残しているのです。その言葉のような生き方をしようとして30 年、今になってやっと気付けた事があります。夢や希望や愛を持ちながらも、等身大の自分をしっかりと維持し、背伸びをする事なく、卑下する事もなく、「私は私、それ以上でもそれ以下でもない。」とはっきりと答えられる人には、本物だけが持つ事ができる輝きや説得力、魅力というものが宿るのではないでしょうか。世界的にあれほど有名になろうと、うぬぼれる事なくしっかりと自分を持ち続けたからこそ、彼は素晴らしいものを残す事ができたのです。
 美空ひばりという歌手もそのような生き方を私達の前に見せてくれた人だと思う。彼女は歌の先生の教えのとおり、いつまでも同じ歌い方をきちんとし続けた人です。先日、モンタ&ブラザースが再結成したそうで、テレビで歌っていましたが、「ダンシングオールナイト」の節まわしをいじりまくっていました。カッコイイと思っているのでしょうね。アリスですら懐かしの歌を歌う時に節まわしを変えたりします。人というものは、それほどに等身大の自分を知り、等身大で生きる事は難しいのでしょうね。私自身も実はいつも“等身大の自分て?”と問い続ける人生なのです。
 経営者や政治家と言われる人々はとても立派な理想を語り未来を語りますが、どこかで薄っぺらな風を感じ心寂しい気分にさせられる事がままあります。等身大を見失いがちな立場の人々と言えるでしょう。
 「夢と希望と明日食べるお金があればそれでいい。」「明後日や1年後まで食べるお金がある必要はないけれど、今日食べるお金がないと、心が卑しくなる。ちょうど明日食べるお金さえあえば、私は私らしく生きてゆける。」チャップリンのこの言葉を久しぶりにある方にお話ししたら、「素敵な言葉。今日のブログはこの言葉を題材にして書いて下さいね。」と言われました。素直に嬉しかったので、素直に書く事にしました。何かのご参考になれば幸いです。


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「小さいけれど大きな幸せ」

とても個人的なお話をします。僕が小さかった頃、たまに父の車でお買い物に出掛けました。父は嫌々突き合わされているというのが態度でありありで、スーパーの駐車場に車を駐めて母が買物をしている間、父も僕も車の中で待っているのです。そう、お買い物には一緒に行けないのです。その理由は時間が長くなるのと、無駄使いが増えるから。これだけでも結構「え~!」って言う人もいるかもしれないけど、僕が何より悲しかった事は、待っている間退屈なので車のラジオを聴こうとすると「バッテリーがあがるからダメ!」と言って、ただじっと静かな車で黙って父と待っている。これが今でも思い出される。
 それから、当時巨人軍が王、長島とV9戦士。学校へ行ったら、いつもみんなプロ野球の話。僕も野球が好きだったからお家でプロ野球を観ている。そうすると父が帰ってきてテレビを消す。「高校野球は純粋だからいいけれど、プロは汚いからあかん」これが理由。悲しかったなぁ。
 それから、僕の家は五エ門風呂。いわゆる薪を燃やしてお湯を湧かす釜風呂の事。これは一気に湧かすので、追い炊きはできません。寒い冬は家族が一気に入らないとお湯が冷める。僕が仕事を終えて帰る頃には、冷たくなってとてもお風呂なんてものではない。これ30~40年前の話じゃないんですよ。今、今日もこの釜風呂なんです。冷え性の人間がゆっくりお風呂に入るという世間では当たり前の事が、僕には夢のような幸せなんです。なんでこんな釜風呂を今も使っているのか?父いわく、ガス代がもったいないから。信じられないねぇ。まったく。なかなか尊敬しろと言われても尊敬しずらいですねぇ。まだあったのを思い出した。お風呂にバスクリンを入れた時、嬉しかったのも束の間、お風呂が錆びるし、タオルが染まるからと、二度とバスクリンは入れさせてもらえなかったなぁ。
 それから、父は休みの日でも朝早くから起きて近くの畑で畑仕事をするのです。僕は休みの日くらい時間を気にせずに寝たいのに。父は休みも働いて野菜を作ったら、家が助かるから。だって。ゆっくりだらだらしてる僕を、いかにもだらしない奴という目で見つめるのです。
 母がせめてもの救いなら、僕も浮かばれるのですが、こっちは父が可愛く思えるくらいの完全なるファシスト。書くもの嫌になるので書きません。書けばまたキリがないですし。

 かくして、46歳の冬、私は小さいけれど大きな幸せが欲しくって、家出をしました。私も自分勝手な亭主なのです。
 しかし、しかしですよ、世間体や常識に縛られて、自分が体を壊したり、気が狂ったら、家族はもっと不幸になるでしょ。これは僕の限界の選択だったのです。会社が大きくなり、僕の判断の持つ意味が大きくなり、どうしても平常心が要求されるようになり、宿替えに及んだのです。
 今は小さいけれど大きな幸せ。バスクリンのお風呂にゆっくり浸かって、世に流行っているブログなどを書くご身分になりました。お母さん(妻の事)、苦労かけてすいません。僕は元気ですから心配しないでね。

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「ハーブ・イズ・プランツ」

今日は久し振りに映画を見に行った。土曜日はオールナイトなので何とか観られるという訳です。今日観た映画はウィル・スミス主演の『アイアム・レジェンド』という題です。宣伝でご存知の方も多いと思いますが、ニューヨークが廃虚になって草が生え、野生の鹿が走る場面は驚きでした。もうこの映像を観ただけで、私としては十分満足だったのですが、映画のBGMがレゲエの王者ボブ・マリーの曲だったのです。実は映画を観る前に“レジェンド”という単語が私には結構意味深な単語でした。それは…私がサラリーマンの時は、仕事等で使用する車は全部会社が与えてくれていたのですが、独立を機に自分の車を買わなければならず、自家用兼営業車として購入したのが、初めてホンダが大型セダンとして世に贈り出した『レジェンド』の2400ccだったのです。私の経営者としてのスタートした時の相棒です。もう1つ連想したが、ボブ・マーリーのアルバム『レジェンド』だったのです。まさか、このアルバムの『レジェンド』と映画がシンクロしているとは思ってもみませんでした。
 随分前、京都木屋町においてレゲエの居酒屋『ラスタ』という居酒屋をオープンし、ボブ・マ-リ-の旗をライトアップして、床には『ワン・ラブ』というタイルのモザイクを施した店を自分達の手で作った事がありました。とにかくお金がないので、内装等を自分達でひたすら作る。疲れたらその床にダンボールを敷いて崩れるように寝る。そして目覚めたらまた作業。総工日数40日。総工費200万円。どん底でいつも聞いていたボブ・マ-リ-。例えは良くないけど、王将のぎょうざのように毎日同じ曲を聞いても、全く飽きる事がないのがボブの歌。何故かという理由が後になってわかりました。ボブは本当に本当にピュアな心で愛と平和を願って歌っていたから、その曲に魂が乗って人々の心に響くからなのです。ボブは、社会や他人を見る事なく、ただ神様(ラスタファリズムではジャーであったりもする)だけを見て生きていたから。当時ラスタファリズムという宗教はハーブ(マリファナ)を吸う事が認められ、それを吸ってレゲエを歌う、そのダーティなイメージの中心にボブが居たのです。
 あるアメリカのテレビで、レポーターが「あなたはマリファナを吸ってレゲエを広めて、罪の意識はないのですか?」とボブに質問を投げかけていました。最初、ボブは無視をします。レポーターは何度もしつこくボブに同じ質問をします。マリファナを公然と吸う悪い奴というレッテルを心に貼付けて…。さすがにその敵意の波動としつこさにボブも怒りをあらわにして、一言「ハーブ・イズ・プランツ」とだけ応えたのです。
 …私にはすごい衝撃でした。たった一言だが、全てを言い尽くすこの力の強さに圧倒されたのです。「ハーブ・イズ・プランツ、ハーブ・イズ・プランツ、ハーブ・イズ・プランツ…」何度も何度も何度も心の中でくり返しました。「ハーブは神様が地上に生み出した植物なんだ。タバコと同じじゃないか。タバコは良くてハーブは悪いと決めたのは、人間であって神様じゃない。もし必要ないものなら、ハーブは地上に生まれたりしない。人がどう言おうと、私は神の恵みに感謝する」そう彼は言いたかったのです。
 法律や他人の顔色を見て生きるんじゃないんだ。神様だけが私達が見るべきものなんだよ。だから神様に誓ってはずかしくない生き方をする事、それが大事なんだ。そりゃ少しは道徳や法律に触れる事はあるかもしれないけれど、私達も自然も全て生み出したのは神様なんだから。
 彼は心から愛と平和を願い続け、歌い続け死んでいった。売れたいとか、カッコイイとか、そんな世の中に媚びた歌を歌っていないから、彼は『レジェンド (伝説)』になったんだ。「ハーブは植物なんだ。」、そうだ。私は神の子なんだ。神様の前で、しっかり目を見て、堂々と自分の生き様を誇れる事。ボブがそうであったように私もそうであろうと決めた。そんな昔を思い出させてくれた『アイアム・レジェンド』は、私にとっては貴重な1本の映画となりました。丁度、人生の大きなターニングポイントに立っている今日、原点を思い出し、また新たな『レジェンド』の始まりとなりました。


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行幸(ぎょうこう)と東京都(ひがしきょうと)

今私が住んでいる京都は、昔は“京”と言ったそうです。都があった所を“京”と言い、政治と文化の中心で、何より天皇がお住まいのお家、つまり“御所”がありました、否“御所”があるというのが正しい。と言う事は、その名が示す通り、政治と文化の中心の象徴として、現在もなお京都にあるという事になる。ところが東京にも御所と名が付く所があり、主に天皇陛下はそこにお住まいになっておられます。しかし、しかしですよ、現在のお住まいは東京都(ひがしきょうと)にある“東宮御所”であって、全て東にある別荘、あるいは東にある京都の出先という名称になっているのです。もし、今の東京都が中心であるとするなら、名称は京都と西京都であらねばなりません。結論を申し上げます。明治天皇は江戸の東宮御所へ行かれる時には、公に「行幸」と言って旅立たれました。「行幸」とは、天皇が外出される事を表す言葉なのです。
 従って現在も天皇陛下のお家は京都にあって、外出中というのが正式な見解なのです。最近はこの「行幸」は一般家庭にも広がっているようで、私も“行幸”2年の身の上です。
 ま、そんな事はさておいて、皇室御用達の多くの老舗は、しばらくすればお戻りになろうと、京都に残りました。ところが、この行幸はどうも長そうだと感じた『とらや』の当代は、東京にも『とらや』を移し、皇室の用に立とうと考えました。それからは『とらや』さんは繁盛して今や『とらや』は東京の老舗と勘違いするような人々の方が多いような逆転現象になりました。
 私は別に歴史的事実を書いたに過ぎず、東京VS大阪のように“アンチ”という訳ではありませんので誤解なきよう。もし誤解があるとするなら“東京都”を「ひがしきょうと」と読まないで「とうきょうと」と読むあなたの認識であるとお教えして今の筆を置きます。


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2007年12月17日

息子の実印

私が成人した時、父から贈られた物が“実印”でした。20歳で成人したというものの、実印を使う事や、ましてその実印の持つ意味等というものを理解できるはずもありませんでした。28歳で最初の一戸建てを買った時に実印を押しました。不動産の仲介業の会社員をしていたので、不動産の売買契約の立ち合いで、契約書に実印を押す事は慣れていましたが、自分が買う時に押した実印の“重さ”と“実感”は、また格別なものがありました。その後もいくつかの不動産を買う機会もあり、また独立して経営者にもなり、実印を押す機会が多くなりました。年齢を重ね、実印を押す度に人生の場面がいくつも思い出され、私の人生の貴いパートナーとして一個の人格に似たものを感じます。いつも実印を押す前に「ありがとう」そして「とても幸福な実印だね」と心で話しかけます。そして、父から子へ、息子への父の思いを考えさせられます。
 私の長女は今年22歳、次女は17歳。2人には今年オランダ水牛の実印を渡しました。私の父が私に贈ってくれたものと同じ印材です。女の子の実印は名字が変わる事が多いので、名前だけを彫るのが一般的です。父から娘へ。私の時と同じように、娘はやっぱりあまり実感がなかったようです。
 そして、今日、長男の実印が出来上がりました。まだ12歳。成人まではかなりあるのですが、私に万一の時に後悔しなくて良いように、用意をしたのです。やれやれこれでまたひとつ、死ぬ準備ができました。息子の実印を眺めながら、私が今胸に去来する思いを30年前に父は私の実印を見て思った事でしょう。
 父から子へ、そして孫へ。私は引き継いでゆきたいと思っています。
 世界ではサインで済むのが一般的だとか、“欧米では”とか、ちょっと知識人になるとそういう事をいう輩がおりますが、領土と軍備と経済力と国民がいれば、国としては認められますが、その国家のアイデンティティー(自尊の心)は、他の民族や国民と異なった文化によってのみ自覚ができるのです。日本の山々が杉の木だけになって、自然豊かな山と呼べないように、多くの文化や風習、言語が存在する事が豊かな世界である事を自覚してほしい。他人と違う自分、実印を大切に思う日本、何と尊い事でしょう。
 (昭和初期の戦争等の)死の直前、多くの日本兵は「お母さん」あるいは「天皇陛下万歳」と言って死んでいったそうです。他にも“妻や子供”もあったでしょうが、兵士はほとんど独身に限られました。(家族を持つと敵兵を殺せなくなるので)ですから、「お父さん」の出番はないのです。仮にあっても「お父さん、お母さん」とセットになっています。父親とはそういう生き物なのです。せめても実印を押す時に、父を思い出して欲しい、そんな思いも込められているのです。
 息子には象牙の実印を用意しました。親バカというのでしょうね。


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2007年12月16日

悲しきスケベ親父に贈る

立派なお立場の先生と呼ばれる人達が、女子高生のパンツを覗いたり、エッチな行為をして、よく新聞雑誌を賑わしているのをもう皆さんはご存知ですよね。男性諸君は若干の理解を示しながらも、理性的に批判します。女性に至ってはスケベ親父は蔑視する対象であったりするのです。私は少女趣味はありませんのでそういう行為には及びませんが、俗に言う「いい女」に出逢えば、何とかくどいてみようと努力はします。男は浮気性と言われる由縁です。でも、男性にだけは分かるのです。理性とは別として、決まった女性以外にも、もっとはっきり言えば嫁さん以外の女性にも性的魅力を感じる気持ちがある事を。そして、それはとても自然な感情であり、妻に不満があるとか、多くの女性を獲得したいというような資本主義者に似たような脂っこい感情ではないことを。
 実は、とても当たり前で自然な事である愛すべき親父であるという事を伝えたいのがこのコラムの思いです。では、ここで質問です。「人間とチンパンジー、それぞれの雌で発情期のないのはどちらでしょうか?」「人間の雌です。」「はい正解です。」では「発情期がないという、つまりいつでも雌が発情できる動物は、どのような進化をするでしょうか?」「発情しっ放しの雌に合わせて雄も発情期を失わない、常に発情をするようにならなければならないのです。」「はい正解です。」では最後の質問です。「あなたは女性がスケベだから男性がスケベに進化したのか、それとも、単に人間の男性だけがスケベな生き物なのか、どちらだと思いますか?」…皆様はそれぞれお考え頂くとして、私の見解をここに述べようと思います。実は人間が二足歩行をするようになって、骨盤の間が極端に狭くなって、人間は子供をどうしても未熟児の間に出産しなければならなくなったのです。ヌーやカモシカのように、四つ足動物は出産後すぐに立てるような大きな子を産めますが、人間はそうはいきません。
 少なくとも2~3年、最近では2~30年も母親が手をかけて育てるような必要に迫られます。そうなると、全く外へ食料を採りに女性が行けなくなります。男性の獲物に頼るより他に生きる術がなくなるのです。しかし命がけ、まさに命がけで手に入れた獲物を今のように法律もない時代に、女性に獲物を届ける必要はないのです。そうなると、私達ホモ・サピエンスの種自体が滅ぶのです。そこで人間の女性は、男性の獲物を手に入れる換わりに、代償として「性」を用意したのです。発情期を無くする事によって、男性に食物の対価として自らの「性」を支払う事で種を保存しようと考えたのです。男性が自ら入手した獲物を腹一杯にするよりもっと喜ぶものを与えるために。今でも男性が気に入った女性を誘う時、一緒にご飯を食べようとするのはDNAの名残りなのです。原始の時代なら、ご飯を男性におごってもらった女性は、対価としての「性」を男性に与えるルールだったのです。なかなか守られませんが…。
 ところが、現代に目を向けると、女性が自立していたり、食物が女性でも入手し易かったりで、子供だけ生んで、自分1人で育てる女性も多くなりました。また、主婦も、夫婦2人の時に相手だけを見つめ合って愛しあっていればよかったのに、子供を生んで、母になった途端、その意識のほとんどを子供に向け、亭主はほとんど目に入りません。常に発情する人類の亭主は「いいお父さん」程、浮気する勇気もなく、性を買う経済力もなく、安いエロ本やPCのサイトを見て自らの衝動を抑えるという涙ぐましい努力をするのです。時には、つい出来心で、大人の女性のように抵抗しない少女にいたずら心を持ってしまったりするのです。なんと愛すべき、けなげなスケベ親父なのでしょう。世間ではそれを声高に「スケベ!スケベ!」と言って批難するのです。私も猿がうらめしいときがあります。「あー、人間にも発情期があったら、どれほど楽なんだろうな。」とか「男はスケベだけど、それは女に合わせるが為のスケベであって、スケベなのは女の方と違うのか?」なんて独り言を言ったりもします。
 チャンスも見方によるとピンチの始まりであったり、ピンチはチャンスの大きな入口であったり、物事には見方というもので評価が全く違って見えるものです。しっかりとした視点を持てば、世の中の出来事の見え方が全く逆になる事も多いのです。
 スケベ親父を批判する前に、どうかとっとと子供を突き放して、夫に優しくしてあげてください。もっともっと平和な世の中になるのですから。「え?」「子供が可愛いくて仕方がない。」「う~ん、それは分かりますが、あまりにもエゴじゃないですかねェー。」


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2007年12月14日

世の中の大きな流れは変わり始めている

今日はちょっと時事問題的な事に触れてみようと思う。次回は「ああ!悲しきスケベ親父」という俗っぽい内容でいこうと思います。あんまり俗っぽいのが続くと、私の本質が誤解されると困りますから。
 昨日と今日のテレビで、タレントの橋本弁護士が大阪府知事選に出馬するという話題でもちきりです。少し前ですが、タレントの“そのまんま東”こと東国原氏が知事選に立候補した時、世間の評価は今以上に厳しかったように思う。ところが彼のひたむきな姿と、知事に当選してからの活躍において、宮崎県民のみならず、全国にその支持層を、まさに「アッ!」と言う間に拡げました。
 “流れは変わり始めている。”橋本知事は誕生するでしょう。確かに戦後レジームの変革を推し進めようとして属議員達に押し戻された安部元首相の例はあっても、大きな流れの方向は確かに変わり始めている。あれほどテレビをにぎわせた麻生氏の名前も最近は全く聞かれません。まさに怖いくらいの速さで価値感が急速に変容している時代である。戦後を代表する大企業や老舗が消費者を偽って逮捕され、その企業が企業を飲み込んだりする時代を誰が想像できただろう。
 天と地がひっくり返る過程では、誰もが混乱する。くるくる変わる目先の出来事に振り回され、一過性の感情に踊らされる。人々は浮き草のように漂い、知らず知らずのうちに濁流に飲み込まれる。そして新しい時代になった暁には英雄と賞讃していた者が戦犯となり、反逆者として投獄されていた者が権力者となる。つまり、今自分は正しいと思っていても、正しいからこそ戦犯になってしまいかねないという悲劇が起こる。だからこそ、われわれは移り気な世相の犠牲にならぬように、より大きな、歴史的な視点でこれからの生き方を決めなければならない。ちょうど、激流の表面で小さな流れがぶつかり合い、水しぶきが上がる。しかし川底では、大きな流れが緩やかに続いている。その底流を体で感じる事が大切なのである。
 私は若手地方議員とその予備軍の諸君の助教なるものを拝命しておりますが、ここに集う若者議員の熱意と清廉さは立派なものです。そして、彼らの背後で彼らを送り出した多くの有権者の見識に、今は少数でも必ず絶対多数となる確信がある。この先端の変化の流れに気付く者はほとんどいない。
 高杉普作が、「立ち上がるならば今月今宵。正月明ければ誰も来る」と言って1人で立ち上がったように、流れが変わって誰もが気付いて立ち上がるような男では政治家は務まらない。
 ちょっと話はそれてしまいますが、小学校で金魚を飼い、落語にはまり、中学校で錦鯉を飼い、高校で盆栽とビンテージバイクにはまり、大学で骨董に目覚め、今は骨董商と町家のリノベーションをやっている私を、友人や知人達は冷ややかな目で“若年寄”と仇名しました。
 しかし、メンデルも言っていたように「見ていてごらん。いつか私の時代が来る」と信じ、来年50歳を迎えようとしています。いよいよ時代が私に出番を与えたようだ。映画『ALWAYS-三丁目の夕日-』以降、明らかに時代はノスタルジーへ振れている。そこには、人と人の温もりと、手仕事の温もりがある。 “俺の時代だ!”以上

参考文献 神田昌典著「人生の旋律」


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2007年12月13日

「私のライバルはわが子」

 前回の夫婦和合の法なるものを伝授しましたね。ついでに今回も脇道へそれて悪ノリしちゃいます。
 目出たく結婚をし、夫婦となると、これは世の中の定めというか常というか、心身ともに和合し始めますよね。そして、和合が頂点に達した時、ご懐妊という事に相なります。無論私もその選にもれず、夫から、父へと新しい役目が増えました。無事長女を授かって、育児をしてゆく過程で、私は大きな気付きを得る事となったのです。
 忘れもしない衝撃的な気付きだったから。私は1歳に満たない長女を抱いて、錦鯉の飼育池のほとりに腰をかけて鯉を眺めていた時の事です。長女が天を指差し、「ヘップクローター、ヘップクローター!」と大声を出すのです。私には何が起きたのか理解できずに、長女の指差す方へ目をやると、なんとそこには「ヘリコプタ-」が一機飛んでいるではありませんか。
 長女はヘリコプターを一早く見つけ誇らしく私に教えていたのです。正直、1歳にならない愛娘ではありましたが、内心末恐ろしいような感覚に囚われました。親バカで、愛娘の自慢をしたいという、そんな安穏としたものではなく、「この子の1年の成長の間、同じ1年を私はこの子の父として、恥しくない1年を自分は過ごしただろうか?」と自問した時、私の心の中で「否」と叫ぶ声がしたのです。もし、娘に対し、親として叱らなければならなくなった時、私は単に娘より年長であるという貯金だけで娘を叱る事になる。それは私の美学に反する…。人を叱るという事には年長であるとか、肩書きがあるとか、そのような権威であってはならない。それは必ず相手に欺瞞の匂いを与えてしまう。そこから尊敬や畏敬の念は崩れてゆく。私は私の愛するわが子には真の愛で向かい合いたい。その為には、同じ1日、同じ1年、自分がわが子よりも努力と成長を成し遂げたと自負できる間は子供達を叱り続けられる。それは社員の皆にも向き合う姿背と何ひとつ変わるものではない。ライバルは、他社でも、自分でも誰でもない。「わが子」が私のライバルなのです。子供の成長を喜ぶ一方で、何と手強い奴らなんだと一方で思う。社員もそう。最初の頃はチョロイ奴らやなぁ、なんて思っていると、最近は彼らも相当手強い。それが嬉しくもあり厳しくもある。
 そんな中で私が見つけた必勝法を最後に伝授して、今日はパーカーを置こうと思う(ブログの下敷き文は勿論万年筆で書いています→ 「万年筆とボールペン」参照)。
 それは進化論における突然変異説を用いる。自分を心身ともに追いつめ追いつめ、自分の遺伝子レベルで生命の危機を感じさせる。そうすると自然に体に備わった眠れるDNAが目覚め、何としてもこの苦境の中でこの生命を生き残らせようと変異を起し始める。私はこの生き方を“狂気の時代”と名付けている。世間では「何もそこまで子供を叱ったり、社員に向き合ったりしなくても」とか「所詮…」とか言って、そこそこのところで留めておくようだ。これを大人と言うのだとうが、私の“業”は私にそれを決して許さない。「愛する者達に私は嘘をつきたくない(ちょっと例外で奥さんは………かも)。」

 ま、とにかくこれをやってみるとわかる。経験からすると、だいたい変異期間は6ヶ月。それでだいたい眠っていたひとつのDNAスイッチがONになる。後は死ぬまでやり続けると、一体いくつのスイッチがONになって、一体どんな自分が出来てゆくのだろうか?滅茶苦茶楽しみ!誰よりも誰よりも自分自身が滅茶苦茶楽しみ!


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2007年12月10日

「イワタ式夫婦和合の方」

 TOKI-WA-SOHとは何の関係もないようなブログと今回はなるかも知れませんが、それもまた一興という事で。
 最近身近な後輩が2人結婚をしました。どちらの披露宴でも挨拶を頼まれ、話そうかと考えながら、話さなかった夫婦円満の法というものをここに書いてみたいと思いました。名付けて“イワタ式夫婦和合の法”。たいそうなタイトルですが、そんなに難しいものではないので、どうかお付き合い下さい。

イワタ式夫婦和合の法
 1.できちゃった結婚はNo!
 2.仕事も家庭も一生懸命に!
 3.お互いお腹に溜めないでグチる!

 では、その説明をしていきたいと思います。

1.できちゃった結婚をしない
 結婚とは初めの一歩はあくまでも夫婦が基本。つまり主役は夫と妻である。従って主役を中心に人生劇場がプロデュースされてゆく。これが基本の姿。ビジネスでも主役の設定はまず第一に決めなければならない事。
 お客様を主役にすると、その主役を引き立たせるようにキャスティングされてゆく。もし会社の儲けを主役にすると、そのようなキャスティングになる。
 同じビジネスでも、主役の設定次第で全く別物のビジネスになる。同業種であってに、はやる店と衰退する店があるのはこの為である。
 できちゃった結婚をすると、当初から主役が宿った子供に組み立てられる。このキャスティングは夫婦もその2人をとりまく家族にもあまり喜ばしくないストーリーにどうしてもなってしまう。これは主役の設定に間違いとまでは言わないにしても、どうしても無理が生じてしまうからなのである。人生もビジネスも、その成否のほとんどはこの主役の設定にあると考えています。

2.仕事も家庭も一生懸命につくす
 今、一生(一所)懸命と書きましたが、この一生懸命の定義が大切です。
 よく世間では、「私はこんなに一生懸命にやっているのに、上司は分かってくれない」あるいは、「私はこんなに一生懸命につくしているのに、あなたはちっとも分かっちゃいない」という言葉を聞きます。しかし、この一生賢懸命は曲者です。ここで言う一生懸命というのはあくまで自分の見える世界の中で自分の考えつく一生懸命をそれこそ一生懸命にやっている状態なのです。
 ここで少し考えてみて下さい。スタッフが力の限り一生懸命にやっているお店。でも、そこに来店したお客様はどうもリピートしない。もうひとつの店は、スタッフは肩の力をぬいて適当にやっているのだけれど、結構またお客様が来店する。さぁ、どちらの店が良い店なのでしょうね。1と同じで、主役は誰なのかという事が重要な要素になってきます。「自分として」一生懸命という時の一生懸命と、「お客様にとって」一生懸命という時の一生懸命を、同じように一生懸命という言葉で表現している事がとても多いという事なのです。主役はあなたではなく、必ずその相手側の人、そう相手の気持ちが主役なのです。相手の方がどのように受け取ったか、それが全て。自分がどうであったかは一切関係なし。「夫婦における一生懸命とは一体?」しっかりと考えて行動すれば、幸せになれる事ま・ち・が・い・な・い!

3.夫も妻もお腹にグッと溜めないで、しっかりグチる。
 武士道は「男はただ黙って」あるいは、男の世界は女にはそもそも分からない、だとか家庭に仕事の話を持ち込まない、という事が言われています。私は、いろんな事を妻にグチる。とにかくグチを聞いてもらう。情けない自分をさらけ出す。何もかも見せる。自分の本当に癒される場所というものは、全てをさらけ出せる妻であって、どこかの特定の場所ではない。もちろん、そんな自然体な癒の場が何ケ所もある事は、別段それを否定するものではありませんが。とにかく、夫婦や社員同志がそのように振る舞えるという集団は強いと思います。夫婦だからこそ、全てをさらけ出しグチる。弱くて弱くて情けない自分を受け止めてもらう。これにつきるように思います。そして自分をさらけ出せる人は、病気にならない、あるいはなりにくいという副作用があるのです。家族の誰が病気でも家庭は暗くなります。ましてや配偶者が病気になる事は大変辛い事です。自然体でストレスを内に溜めず、等身大で生きてゆく事は全ての幸せの基本となるのです。いい加減な人生こそ良い加減なのです。


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2007年12月05日

万年筆とボールペン

今日、京都駅の伊勢丹へ行きました。久しぶりに文具コーナーです。私が普段使っている万年筆のインクがなくなってきたので買いに行ったのです。筆記具売り場へ行くと意味もなく嬉しくなるのです。モンブラン、パーカー、ペリカン、ポルシェデザイン等々。もう、かっこいいこと。どの筆記具にもしっかりとしたアイデンティティ-があるのです。うっとりとした目で眺めているだけ。

 元来、明治に法律によって決められた正式な筆記具は万年筆なのです。現在はほとんどボールペンを用いていますが、これは後々に通達によって認められたもので、正式には万年筆なのです。ところが先日銀行へ出向いて署名をする際、万年筆で署名したら、ボールペンでの書き直しを強要されたのです。私は正論を言ったのですが、複写である事を理由に断固拒否されたのです。まぁ、時代というもので、それは仕方ないか?


 またまた先日、若手政治家の皆様のお勉強会に臨席する機会がありました。1人1人の筆記具を見てみると、かなりお粗末なものでした。私は、リーダーたる者、自分の名前や思想に誇りを持たなければなりませんし、それらのものを文字という形にするのに、自分の器に値する筆記具を用いるべきであると考えています。筆記具は、いわば武士の刀のように、リーダーたる者の魂だと考えているからです。他人の評価は別として、私は若い頃から、断固上質な筆記具しか使っていません。
 高校に合格してお祝に自分で自分に買ったのがエンジ色のモンブランの万年筆。そのあと、中国製の英雄という万年筆に。値段は安いですが、パーカーの指導で中国が作ったもので、値段に比べるとかなり上質なものと言えます。
 その後パーカーのシルバースターリングにどっぷりはまって、今5本目になりました。最近いただき物の高級品でペリカンも使っています。このブログの元原稿はペリカン文書です。

 私的にはドイツ製万年筆はペン先が固いように思います。握った太さ、ペン先の固さはパーカーが最高です。しかも、万年筆で書けば、その書く悦びはよくわかるはずです。皆さんはほとんど万年筆を使っていないから分からないだけだと思います。

 自分という等身大の「私」の今の姿が、あなたの使っている筆記具だと私は勝手に断言をして、今日の筆を置こうと思います。


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2007年12月03日

粋(イキ)と粋(スイ)を考える

まず「粋」の字を見て何と読みますか?「イキ」です。はい、大正解。「スイ」です。間違いました。…いやいや。ちょっと待って下さい。これを「スイ」と読めるあなた。あなたはかなり「スイなお人」です。ひと昔前なら花街で大もてのお大臣様になれますよ。
 試しに京都へ来られて、少し年配の地方の姐さんにさりげなく、かんざしや着物の柄を見て、「それスイなもんですね。」なんてほめたもんなら、ばっちり百点満点のお客さんになれること、ま・ち・が・い・ない。

 「粋」は日本人が長い年月の中で磨き上げ、生み出した極めてすぐれた美意識と言えます。諸外国は長い歴史の中で興亡をくり返し、1000年以上にわたってひとつの文化を時間をかけて育む事はできませんでした。ところが、私達日本だけは例外中の例外として、万世一系の同一国家同一民族として、類まれなる洗練された文化を創り上げるに至ったのです。
 「侘」「寂」を解する境地、中間色の色相が豊かな境地に至るには、相当の時代をかけて練り続けられなければ到達する事は不可能なのです。この境地こそ私は人類史上の世界遺産であると確信しています。
 世界は今、鮮やか、大きい、洋風が主流ですが、徐々に世界も平和が続き人々の文化水準が向上し、日本を解する層が広がりを見せています。京都への観光人口の増加は今後も続くものと考えられます。ところが、入れ物としての神社仏閣は世界遺産に指定されていますが、その精神文化は私達がしっかりと受け継ぎ守り伝える意志を持たない限り、本当にただの過去の遺産と化してしまうのは必定です。しかもその兆候が今現われ始めているのです。敗戦というたった一度の侵略によって。今こそ、その精神文化の伝承にこそ決意しなければならない時代はないのです。

 「粋(イキ)」は江戸時代の町人文化から生まれ、遊びの美学として発達しましたが、明治以降も生き続けてきました。江戸の「粋」は、野暮な俗世があり、その対比として「粋」を形づくっていったものです。野暮があるから粋がある。野暮な人間の中から洗練されて粋になってゆく。そんな身近な美意識が江戸の「粋」と言えるのではないでしょうか。

 一方、「粋(スイ)」は平安時代の貴族文化から生まれ、江戸時代あたりになると、固定的な上層町衆やその時代の人の美意識が、町人文化に影響を与えていったものが今日まで生き続けてきたものと言えます。
 江戸の「粋」は俗世界に生きている者が、その俗にまみれずに、自分だけはどこか離れた距離感を有してサラッと生きている感覚ですが、京都の「粋」は、もともと貴族趣味ですから、俗からは超然としていて、遊びひとつひとつとっても、それを理解し、楽しめる境地までたどり着くには、時間と労力と経済力が要求されます。従って、一般の町人には極めることは難しく、俗人の評価によるものではありません。江戸の「粋」とは異なり、そもそも俗には生きていない人々の文化なのです。

 このように「粋(スイ)」を極めるには、精神的に俗から離れるだけではなく、時間をかけてお勉強をしなければならないのです。従って、これが高じると、一人庵をむすんで禅的志向の世界に没入するという事が現われます。これは、江戸との明確な違いです。ここに一休禅師や西行法師のように、乞食のような人々も文化人として尊敬される独特な価値感が生まれたのです。
 あるいは、その逆としての、「婆沙羅」のように「粋」をも超えた独自の境地を創り上げるのも「粋(スイ)」の特徴と言えます。
 このような、慎ましい美意識が、消費文明の現代社会を共生文明へと向かわせる進歩的価値感として、唯一のものと自負しております。金銭の多寡や持ち物で優劣を争わない精神性を有しているのは、おそらく世界でも原始的なインディオや原住民を除いて、文明国と呼ばれる国の中では、日本が唯一であると考えています。

 まさに「粋」は古き良きモノではなく、新しい時代のポストモダンな価値感となり得るでしょう。その息吹きを京都から発信し、多くの人々が「粋」について考え「粋」に生きる事を目指し、それが人々から賞讃されるように、再度、私達の時代へ世界を転換させたいと目論んでいるのです。


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